防長民のぶらぶら放浪記

山口県内のスポットを訪れて紹介する地域ブログです。

山口県下関市の「高杉晋作終焉之地」の現地を紹介

山口県下関市の「高杉晋作終焉之地」の現地を紹介します。

高杉晋作終焉之地」とは

以前紹介した「高杉晋作療養の地」と似ていますが、こちらは高杉晋作の肺結核が重症化して療養の地から移動した場所になります。

高杉晋作は四境戦争の小倉口で幕府方を撃退する活躍をしましたが、戦いの前から侵されていた結核を重症化させました。

最初は療養の地である「桜山神社」の近くの小さな家に住んでいましたが、街中のこの場所に移動することになります。

しかし病状は回復することなく、27歳の若さで亡くなることになります。

 

辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」でした。

高杉晋作終焉之地」の場所

もともと、この場所は庄屋の林算九郎(はやしさんくろう)宅の離れでした。

結核が悪化したため別記事で紹介した療養の地から、こちらに移り療養生活を続けましたが、あえなく亡くなりました。

案内板

近くまで来ると下記の案内板があるので、訪れる際は参考にするといいかもしれないですね。

英語の表現が直接的過ぎてドキッとします。

高杉晋作終焉之地」の風景

実は以前は汚くなっていたそうですが、現在は整備されています。

整備は白石家(正一郎末孫)からのご寄付を原資として実施されたとのことです。

白石正一郎は最後まで維新を支え続けていたのだと実感できます。

全体の様子

驚くほどこざっぱりしています。

高杉晋作の人柄なのかもしれません。

周囲は住宅街で、ここだけ2メートル四方に不自然にスペースが空いています。

正面

真ん中に「高杉東行終焉之地」の塔が建っており、左には説明板が建っています。

周囲はきれいな板で囲まれています。

これと言って何もないので、横の説明がないと何が何だかさっぱりの場所です。

記念植樹

横に記念植樹がされていました。

まだ若い木なので、ここ数年程度の最近のものだと思われます。

 

横には「高杉力」、「白石明」との連名でした。

もしかして、こちらのお名前の方々は高杉家と白石家の子孫の方々でしょうか。。

高杉晋作の死後

高杉晋作の遺骸は吉田清水山に運ばれ、葬儀は白石正一郎が祭主となって神式で行われました。

こちらの碑は大正15年(1926年)5月に建設されました。

そして平成26年(2014年)12月白石家のご寄付により環境整備されました。

 

なお、碑銘は書家として著名であった長州藩出身の貴族院議員野村素介との説明がありましたが、私は詳しくないです。

一般的には著名なのかもしれません。

 

以上です。

 

鳥居がマンションに刺さっています。山口県下関市の厳島神社を紹介

高杉晋作巡りをしているときに発見した、山口県下関市にある厳島神社を紹介します。

こちらも高杉晋作が関係したスポットとなります。

山口県下関市の厳島神社とは

もともとは安芸国厳島神社より分霊を勧請を受けた、海上安全の嚴島三神を祀った神社です。

嚴島三神

  • 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
  • 田心姫神(たごりひめのかみ)
  • 湍津姫神(たぎつひめのかみ)

 

ただ幕末にかけては高杉晋作が先勝祈願、小倉城の太鼓を奉納するなど、高杉晋作との関係がとても深い神社になります。

厳島神社の場所

下関駅から191号線沿いに向かい、徒歩で15分程度の場所にあります。

そこそこ歩くので、よく計画してから行くとよいでしょう。

一ノ鳥居

一ノ鳥門はマンションに刺さっています。

京都の錦天満宮の鳥居がたまにテレビで話題になりますが、山口県にもあるんですね。

マンションがくりぬかれていますが、マンションの内側から見たらどうなっているのかがとても気になります。

ニノ鳥居

こちらが二ノ鳥居です。

一ノ鳥居の目の前には横断歩道等はないので、二ノ鳥居まで少しだけ遠回りしてくることになります。

ここから本殿までは少しだけ階段を歩いて登ることになります。

なお、横には厳島神社について丁寧に記載された、ありがたい由緒があります。

木に書き込まれているためか少し読みづらいですが、今どきの鉄板やプラスチックの説明板よりも歴史的な雰囲気があってよいです。

本殿

本殿はこじんまりとしていますが美しい造りです。

過去に火災があったとのことで、若干新しいです。

一般の人が来れるのはどうやらここまでのようです。

小倉城の太鼓

この神社の名物は、なんといっても小倉城の太鼓になります。

「何でこんなところに九州の太鼓が?」となるのですが、四境戦争で燃え盛る小倉城から高杉晋作が持ち帰り奉納したとされています。

 

小倉城ともなると歴史があり様々なものがありそうですが、その中から太鼓を選んで持ち帰る高杉晋作のセンスに脱帽です。

この太鼓を横からも撮影してみました。

太鼓もこのような展示をされると、梵鐘みたいです。

今もたまに使用することがあるのでしょうか。

高杉晋作療養の地への道

神社を参拝した後にこちらの道から、高杉晋作療養の地に向かうことができます。

ここから向かう場合は、階段を下りて右に曲がります。

高杉晋作(高杉東行)療養の地の詳細は別記事に挙げています。

www.dojo.love

 

以上です。

 

山口県下関市の「高杉東行療養の地」への道順

以前「高杉東行療養の地」に向かったのですが、道に迷ったので初めて行く人向けに道順を説明してみようかと思います。

ちなみにこの経路は案内路通りなのですが、途中が階段になっていたりするので車は通れません。

前回の記事

前回の記事はこちらで、現地の様子を紹介していますので、もしよければご覧ください。

現地まで結構な距離を歩くので、どんなところか先に知っておくのもいいと思います。

www.dojo.love

「高杉東行療養の地」への道順

道順は以下の通りになります。

厳島神社

最初の目印として、下関市内の厳島神社の二の鳥居が分かりやすいので、まずはこちらを目指して移動するとよいと思います。

こちらが地図になります。

写真は「厳島神社二ノ鳥居」です。

ちなみに話はそれますが、この神社内は高杉晋作が四境戦争の際に小倉城から持ち帰った、城内の大太鼓が展示されています。

なので、立ち寄って眺めたり、神社参拝していくのもいいかもしれません。

萩藩新地会所跡

ただ、今回は神社内には入りません。

厳島神社の横に「萩藩新地会所跡」があるのでそちらに移動します。

「萩藩新地会所跡」の横の道をまっすぐ進みます。

写真の真ん中の看板に注目です。

高杉晋作療養の地 これより220m」と書かれています。

山陽本線の線路下

線路の下の狭いトンネルを通っていきます。

看板の矢印が少しややこしいですが左の小道へ曲がってはいけません、まっすぐです。

線路を通り過ぎると階段とスロープのみで車は通れません。

 

写真の右側の看板によれば、この時点で「高杉晋作療養の地 これより90m」となります。

ちなみにこの線路は山陽本線なので、よく電車が通ります。

 

そして、線路を通り過ぎて後ろを振り返るとこんな狭い道を通っていたのかと少々驚くことになります。。

地元の人はよく使用するようで、おばあちゃんとすれ違いました。

急な坂道がある場所なので、毎日上り下りすると足腰が強くなりそうです。

療養の地への坂道

療養の地への坂道が続きます。

高杉晋作は病身でこの坂道を登っていたのでしょうか。。(さすがにないか)

この坂道は常に左側を気にしておくことが重要です。

「高杉東行療養の地」へ到着

そして坂道の途中に「高杉東行療養の地」があります。

坂を登り切ってしまったら、通り過ぎたと思ってよいです。

補足

厳島神社を参拝してから高杉晋作療養の地へ向かう場合は、下の写真のような階段を下りて、右に向かえば同じルートに合流します。

 

以上です。

山口県下関市の「高杉東行療養の地」の現地を紹介

「高杉東行療養の地」という、歴史に詳しくない人間からすれば高杉晋作に関する何とも不思議な地があります。

そのためどんなところか、いつも通り現地を確認してみることにしてみました。

高杉東行療養の地とは

幕末に高杉晋作が療養した場所のことです。

 

幕末、幕府側との長州征伐(四境戦争)の小倉口における戦いは、高杉晋作が指揮を執りました。

小倉口の戦いは小倉戦争とも呼ばれ、長州藩にとっては人数的に不利な状況でしたが高杉晋作は戦いを勝利に導きました。

しかしながら、この戦いにおいて高杉晋作は持病の結核を悪化させてしまいました。

 

この下関の地で小さな家を建てて療養したことから、ここが療養の地と呼ばれています。

 

なお、「東行」とは、晋作の号(別名)です。

高杉東行療養の地の場所

場所は住宅地のど真ん中で、初めて来た人はよく探さないと気が付かないです。

なお、周辺は住宅が密集しているので、大声を出したり周囲の迷惑にならないように静かに探索することにしましょう。

高杉東行療養の地の風景

ここの風景は一言でいうと、さっぱりしています。

現在は坂道にある石碑のみで、周辺は何もありません。

遠巻きから見たところ

遠巻きから見ると石垣に埋もれており、うっかり通り過ぎそうです。

実は私も通り過ぎて、幼稚園に着いてしまい引き返しました。

高杉晋作のイメージを期待してこちらに来られる方は、もしかしたら期待外れな印象を受けるかもしれません。

ただ、高杉晋作にしてみればこのような殺風景で静かなところであることが、療養に最適だったのかもしれません。

個人的な意見としては、荒々しく派手なことばかりが高杉晋作ではなく、これも高杉晋作の人生の一部であることを考えれば、心に深く染み入るものがあります。

石碑の周辺写真

周辺は石碑と簡易な説明版のみです。

さすがに香炉みたいなものはありませんが、それこそ手前のスペースに何か夏ミカンやリンゴなど余計なものを置きたくなります。

石碑の拡大写真

次に石碑をズームで写真を撮ってみました。

何やら漢詩らしきものが書いてあるのですが、その場では読み取れませんでした。

調べてみると、「落花斜日恨無窮~」という内容は高杉晋作が療養中に読まれた漢詩とのことです。

補足

なお、最後に補足しますと、実際の療養地はここより少し先にあったとの記載が説明書きにありました。

するとなぜこの場所に石碑があるのでしょうかという疑問があるのですが・・、大人の事情かもしれませんね。

少し登りきったところが見晴らしがよいので、そこがそれっぽい気がしますが、確認するすべが見つかりませんでした。

 

以上です。

山口県岩国市の岩国城付近になんと岩国市最古のソメイヨシノがあったので紹介

なんと山口県岩国市の岩国城の付近に岩国最古の桜ソメイヨシノがありました。

この付近は「日本さくら名所100選」にも選ばれる桜の名所なのですが、このような桜もあるとのことで、その貴重な姿を撮影したので紹介します。

岩国最古のソメイヨシノの場所

場所は岩国城の麓、吉香公園の付近に当たります。

岩国最古のソメイヨシノの写真

岩国最古のソメイヨシノは、なぜか2本ありました。

既に矛盾していて、どちらが本当は最古なのか気にはなりますが・・・、せっかくなのでどちらの木についても紹介します。

1本目のソメイヨシノ

まずは1本目のソメイヨシノから見ていきます。

全体像

全体の姿はこのような感じで、曲がりくねった感じでした。

桜の左側に「岩国最古のソメイヨシノ」との看板が掲げられていました。

全国屈指の古桜とのことで、いかにも岩国という歴史ある土地柄にあった感じです。(良い意味で)

支柱で支えられ、柵も張られとても守られていますが、元気な桜です。

桜の上部

桜の上部を見てみると、葉は間違いなく桜でした。

山口市の某公園みたいに、途中から違う木が生えているようなことはありませんでした。

www.dojo.love

桜の下部

桜の下部を見てみると、新しい葉が生えていました。

ここからも新しく生えてくるのでしょうか。

桜の生命力を感じます。

桜の幹

そしてこの桜で、最も特徴的なのがこの幹です。

辛うじてつながっている感じですが、上部も葉がついていたことを考えると、まだまだ生きた幹だと考えられます。

2本目のソメイヨシノ

そして2本目のソメイヨシノです。

最初あれ?と思ったのですが、桜に掲げられた看板を見てみると確かに「岩国最古のソメイヨシノ」と記載されていました。

なんとこちらも「全国屈指の古桜」と書かれていました。。

全体像

全体としては1本目の桜よりどっしりした印象です。

こちらのほうが、木としては元気な印象です。

桜の幹

こちらの桜はとても幹がしっかりして太いですね。

もしかしたら昔はもっと大きくて傷んだ部分を、台風などに備えてカットしたのかもしれません。(私は造園に詳しくないので、分からないのですが・・)

どちらも特徴的な桜ですので、見比べると楽しいですものです。

もしかしたら同じ原木から2本に分かれたのかもしれませんが、その辺の経緯は確認が必要です。

 

岩国と言えば、錦川の錦帯橋の先の桜がきれいですので、そちらとあわせて観覧されるとよいかもしれません。

 

以上です。

 

山口県周南市の遠石三丁目交差点地下道のノスタルジックな風景

前回、旧徳山海軍地下燃料タンク跡の油の流出を調査した際に、その付近に何ともノスタルジックな地下道を発見したので紹介します。

遠石三丁目交差点地下道とは

遠石三丁目交差点地下道は、かつて通勤・通学に使用されてきた地下道とのことです。

ただ、一時は車社会の発達で交通事情が変化し利用者が減少し、荒廃した状態になりました。

しかしながらそれではよくないとのことで、付近の小中高校生が地下道の壁画を描き、清潔にし、環境を改善していったとのことです。

詳しい経緯は地下道の中に掲示がありましたので、付近の方々は散策してみるのもいいかもしれません。

遠石三丁目交差点地下道の場所

周南市遠石の県道347号線と県道366号線、山陽新幹線、衣川の交わるあたりの地下道に当たります。

道路、新幹線、地下道、川が複雑に入り組んでいます。

遠石三丁目交差点地下道の風景

実際に地下道を歩いて通ってみたので、その風景をかいつまんで紹介してみます。

地下道の入口

まずは、高さ制限が1.8Mの入り口の風景です。

高さに対する重厚な枠が備えられていました。

思わず、ここはそんなに車が通るんだろうか?と思ってしまいました。

しかしその思いとは裏腹に時折、車が通っていました。

地下道の中の掲示で通行人が減少したとの記載されていましたが、今でもある程度需要はあるようです。

展示品

様々な展示品が掲示されています。

少し年月を感じますが、どの絵も個性があります。

ここを荒廃させまいとする努力の形跡がうかがえます。

少し広くなっているところ

地下道の途中で、少し天井が低くなります。

そしてここで一旦横幅が広くなっているのは、車が対向車と行き違いできるようにするためだと思われます。

中の照明はしっかり点灯しており、中は意外に明るいです。

この先は横浜緑地なのですが、そこまでは安心して交通できそうです。

反対側の入り口

反対側の入り口も同じように高さ制限の記載がありました。

反対側も来た時の入り口と雰囲気は似ていますが、南側で日が当たる分、こちらのほうが心理的に抵抗なく入れるかもしれません。

上を見上げると、複雑に道が交差していることが分かります。

道の上に道ができ、その上に道・・・と徐々に道が増えていったのだと思うと、時の流れを感じさせます。

衣川

ここの地下道の特徴は、衣川と並行していることです。

幅の小さな川であり、雨の日は増水に少々注意が必要かもしれません。

ここを歩くときは川の中に時折魚が泳いでおり、普段は水が綺麗なことが窺えました。

 

この川の先は山陽本線の線路が見えました。

 

以上です。

 

山口県周南市の旧徳山海軍地下燃料タンク跡の油の流出を現地確認しに向かったので紹介

山口県周南市の旧徳山海軍地下燃料タンク跡の油の流出を、現地確認しに向かったので紹介します。

流出の場所

燃料タンクは戦時中に現在の「周南緑地公園 東緑地」にありました。

当時は12基の地下貯油タンクがあったとのことです。

タンク自体は埋められていますが、どこかしらに油が残留しているとのことで、現在も原油山口県周南市の付近の衣川に流れでています。

油はその後は櫛ヶ浜港に向かっていきますが、その前に作業員さんが手作業で回収しています。

現地の様子

周南緑地公園から衣川を流れ県道347号線の下を通り、山陽本線の横の川に接続するのですが、木々や塀をまたがるので、今回は山陽本線までを見ていきました。

周南緑地公園

スタート地点は周南緑地公園の「周南市水泳場」付近です。

本題とは外れるのですが、野犬が多いためこのような野犬に関する看板がいくつも建てられています。

衣川上流

上流と言っていいのでしょうか。

周南緑地公園からすぐ近くの衣川を見てみました。

公園側の下り坂の高い位置なので、水の様子はよく見えませんでした。

オイルフェンス

少し川を下り、マンションの横まで来るとオイルフェンスがありました。

周囲の風景と似つかわしくないオイルフェンスです。

この日はたまたま天気が良かったので油が確認できませんでしたが、オイルフェンスについた黒いものは前日までに流れ出た油の跡だと思われます。

付近には油をくみ取る道具が置かれていました。

手作業で作業されているようです

大量のポリタンクもあります。

察するに少しずつですが、毎日相当量の油が流出するのだと思われます。

オイルフェンス2

少し下にも二重のオイルフェンスがあることから、少しでも海に出さないような姿勢がうかがえます。

347号線の下

347号線の下まで来ました。

水はとてもきれいでところどころ魚が泳いでいました。

山陽本線が見える個所

奥に山陽本線が見えます。

ここで道がないので止めましたが、オイルフェンスが設置されている個所は、人が移動できる場所ではここが最後のようです。

ここは水が淀んでおり多少油っぽいかもしれません。

ただ、付近に漁業被害はないということなのでここまでで全て食い止められているようです

実際に見た限りもそのような実感が持てました。

 

ここを歩く前に、実はWeb記事や図書館を訪ねたりしたのですが、次第に複雑な心境になりました。

その要因の1つが、この油を除去しているのはシルバー人材だということです。

戦争を肌で感じた世代が、戦争の後始末を全部しているようで、大変申し訳なく感じます。

 

以上です。

 

山口県下松市の二級河川玉鶴川を歩いた記録を紹介

この記事では山口県下松市の二級河川、玉鶴川を紹介します。

用事があって近くの銀行に行っていたのですが、とても小さな二級河川があったので紹介します。

二級河川玉鶴川の場所

下松市の中心を通り瀬戸内海へ流れる川です。

位置としては下松市西柳や西豊井が上流になるのだと思われますが、暗渠となっており上流部の詳細は不明です。

 

玉鶴川下り

下松市にある玉鶴川を下ってみました。

昔はこの川も舟が通っていたそうですが、現在はどのような川なのでしょうか。

スタート位置

スタート位置は下記の場所からになります。

なぜならば、これより上流は暗渠(あんきょ)になっており、道路、住宅などに阻まれ川の流れが確認できないためです。

生活排水なのか泡が浮いており、水質はあまりよくなさそうです。

農協裏

しばらく進むと左は住宅、右は古びた工場らしき建物がありました。

この建物は地図を見ると農協でした。

水は相変わらず濁っています。

水草生息地

水草が生えています。

外来種アナカリスかなあと思ってみてみましたが、枝が細いのでもしかしたら数が減ってきている在来種のマツモかもしれません。

意外な発見です。

「車両通り抜けできません。」の看板

「車両通り抜けできません。」の看板がありませんでした。

直進は無理ですが、右の農協側へ自転車(軽車両)なら通り抜けられそうです。

90度カーブ

途中で90度近いカーブがありました。

今は晴れているので大丈夫ですが、この直角カーブは大雨の際の強い水流に耐えきれるのでしょうか。

「私有地につき立入禁止」のコーン

曲がった先で、「私有地につき立入禁止」のコーンがありました。

この先突き当りでさらに90度左に川が曲がる個所があるのですが、立入禁止のため、撮影は断念しました。

上玉鶴橋

やむを得ず、先に回り込んで上玉鶴橋へ向かいました。

気のせいか、ここの川の流れは淀んでいます。

通り回りしたため念のため確認しましたが、ここは間違いなく玉鶴川です。

横断歩道から橋を渡ってみましたが、川幅が広くなりました。

川幅は3メートル程度でしょうか。

最近河川工事があったためだと思われます。

山陽本線高架下

ここで山陽本線の高架下になります。

頭のすぐ上を山陽本線の列車が通るので大迫力です。

たまたま山陽本線の岩国行きが通りました。

高架も年代物のようで「日本国有鉄道 1983 KS-16 WU606-9 日立造船株式会社広島工場」と記載されておりました。

西一橋付近

この先に見えるのが西一橋です。

少し川幅が広くなりましたが、特にこれといった変化はありません。

直線の川が続きます。

玉鶴橋付近

目の前に見えるのが玉鶴橋です。

ここも平凡な感じですが、県道366号線と交差しており交通量は多いです。

ここから先は第二ふ頭となり、海につながります。

関係者以外立入禁止の区間があるため、ここで終了します。

二級河川玉鶴川と二級河川錦川の比較

同じ二級河川でそれぞれどれくらい大きさが違うのか、玉鶴川と同じ山口県内の錦川を比較してみます。

下松市玉鶴川

川幅は1~1.5メートルといった感じでしょうか。

岩国市錦川

こちらは毎年連休になると観光客が多く訪れる、名勝錦帯橋がある錦川です。

錦川は少し川幅に差があるので、ジャンプで飛び越えるのは厳しいかもしれません。

また玉鶴川と違って通行料を取られる橋があります。

この点、玉鶴川はお得と言えるでしょう。

一級河川二級河川の違い

国土交通省の定義によれば、一級河川二級河川の定義の下記の通りです。

河川法による管理を行う必要があり、国土交通大臣が指定(区間を限定)した河川が「一級河川」、「二級河川」は、一級水系以外の水系で公共の利害に重要な関係があるものに係る河川で、河川法による管理を行う必要があり、都道府県知事が指定(区間を限定)した河川です。

なので、別に河川の大小は関係なかったりします。

ですが、玉鶴川と錦川が同じくくりなのは、いまいち納得がいかない気がします。

 

以上です。

山口県下松市の市名由来となった松、金輪公園(かなわこうえん)の鼎の松(かなえのまつ)を紹介

下松発祥の松、「鼎の松」(かなえのまつ)を紹介します。

鼎の松とは

鼎の松というのは、下松の地名の由来となる三株の大きな松が、かつて鼎の足の形であったことから名付けられています。

鼎とは3本足の昔の中国の器です。

現在は下記の写真の通り、松は1本のみが残っており、当時の松から見て5代目の松となっています。

下松の由来との関係

鼎の松が下松の由来になっていることは、少々追加の説明が必要です。

下松の由来の物語がこの地はありまして、要約するとこのような物語です。

下松の由来

下松にはかつて星が降って松に引っかかり、更にはその星は光り続け、神の託宣がありました。

その神託の内容は「3年後にこの地に異国の太子がやってくる」という内容で、実際に百済の太子がやってきました。

その星が引っ掛かったのが鼎の松でした。

そして松に星が降った(くだる)ということで→降る松(くだるまつ)→降松(くだまつ)→下松(くだまつ)と、現在の市の名前の由来になりました。

伝説と史実の境があいまいなところが、日本史らしくて良いですね。

ただ個人的には松は海、星は吉凶のような、例えば河童のように何等かの言い換えのようにも見えなくもないです。

鼎の松の場所

現在の鼎の松は5代目となり、下松駅北口から出てすぐ近くの公園にあります。

3代目は下松スポーツ公園に展示されており、4代目は枯れたとのことです。

5代目鼎の松の様子

これらを踏まえたうえで金輪公園へ行き、当地の松を観察してみました。

金輪公園(かなわこうえん)

まずは松が存在する公園の表札です。金輪公園と記載されています。

金輪は「かなわ」であり、鼎(かなえ)からきているようです。

金輪神社(かなわじんじゃ)

なんと公園の中に神社があります。

子供用の砂場があり、松があり、神社です。

そして、この神社は「金輪神社」という名前の神社でした。

案内板がないことから、鳥居の横の松はただの松のようです。

鼎の松(かなえのまつ)と鼎

鼎の松はこちらです。鳥居から少し離れた位置にありました。

昔は降臨松、連理松、相生松の3樹で、鼎の形だったとのことです。

全体を見てみると、5代目鼎の松はこのようになかなか高い松のようです。

石碑

近くに鼎の松について記した石碑がありました。

内容は少し読みづらいのですが、下記のように記載されています。

下松発祥之地

七星降臨鼎之松

梅田東洋謹書

梅田東洋については情報がありませんでした。

 

以上です。

山口県柳井市の旧柳井市役所跡地を訪ねたので紹介

山口県柳井市の旧柳井市役所跡地を訪ねたので紹介します。

今回は少々マニアックすぎて、一部の人以外には共感を得るのは難しいかもしれません。

柳井市役所跡地の場所

サンビーム柳井前の駐車場の付近になります。

現地の状態

現地の様子をいくつか撮影し、カメラに収めました。

全体を納めた写真

まずは役所跡地と分かるものを全体的に撮影したものが、こちらです。

一見雑木林にしか見えませんが、よく見ると石碑らしきものがあります。

石碑の拡大

驚くべきことに市役所の跡と分かるものは、この石碑しかありません。

内容は「柳井市役所跡地 昭和8年12月~昭和59年10月」で、恐ろしくシンプルな内容です。

草刈りを怠れば誰も気づかなくなりそうです。

石碑の横の様子

石碑の横には、柳の木と別の石碑で碑歌が刻まれています。

柳の木は柳井市だからでしょうか。柳井市の由来となった柳の木はここではなく、別の場所にあります。

また碑歌は松島詩子さんが山口県柳井市出身だからだと思われます。

ただ、旧役所との関係は不明で松島詩子の代表曲だから刻まれているだけであって、役所とは関係がないのだと思われます。

柳の木の全景

柳の木の全景を撮影しました。

高さはおよそ5メートル程度で、なかなか立派な柳です。

もしかしたら、旧市役所に生えていた柳なのかもしれません。

※後で写真を見返して気が付きました。奥のイギリス積みのレンガはもしかしたら旧柳井市役所と関係がある可能性も考えています。レトロギャラリーを見てみるとこの一帯の建物はレンガ造りも多く、気になっています。

結局柳井市役所跡地とは何か

ここまで読むと、「柳井市役所跡地という石碑しかありませんでした、不確かな情報です」という報告になります。

確かにインターネット上を調査しても情報がなく、現地の旧市役所跡地にも看板がなく痕跡らしい痕跡がございませんでした。

しかし、柳井市内の麗都路(れとろ)通りの各所に配置されている、陶板画の説明書きにもこのような記載がありました。

昭和8年(1933)に経費3万2千円を投じて完成した旧柳井町役場の新庁舎で、今の「サンビームやない」の駐車場付近にあった。昭和29年(1954)柳井市が誕生以来市役所となり、同59年(1984)柳井市南町に現庁舎が完成するまで、柳井市役所の庁舎であった。

※陶板画より引用します。画像はレトロギャラリーの陶板画を丸写しになるので、カットしています。

 

数は少ないですが、確かに51年間役所がこの場所にあったことが随所で確認できました。

 

以上です。