「高杉晋作終焉之地」とは
以前紹介した「高杉晋作療養の地」と似ていますが、こちらは高杉晋作の肺結核が重症化して療養の地から移動した場所になります。
高杉晋作は四境戦争の小倉口で幕府方を撃退する活躍をしましたが、戦いの前から侵されていた結核を重症化させました。
最初は療養の地である「桜山神社」の近くの小さな家に住んでいましたが、街中のこの場所に移動することになります。
しかし病状は回復することなく、27歳の若さで亡くなることになります。
辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」でした。
「高杉晋作終焉之地」の場所
もともと、この場所は庄屋の林算九郎(はやしさんくろう)宅の離れでした。
結核が悪化したため別記事で紹介した療養の地から、こちらに移り療養生活を続けましたが、あえなく亡くなりました。
案内板
近くまで来ると下記の案内板があるので、訪れる際は参考にするといいかもしれないですね。
英語の表現が直接的過ぎてドキッとします。
「高杉晋作終焉之地」の風景
実は以前は汚くなっていたそうですが、現在は整備されています。
整備は白石家(正一郎末孫)からのご寄付を原資として実施されたとのことです。
白石正一郎は最後まで維新を支え続けていたのだと実感できます。
全体の様子
驚くほどこざっぱりしています。
高杉晋作の人柄なのかもしれません。
周囲は住宅街で、ここだけ2メートル四方に不自然にスペースが空いています。
正面
真ん中に「高杉東行終焉之地」の塔が建っており、左には説明板が建っています。
周囲はきれいな板で囲まれています。
これと言って何もないので、横の説明がないと何が何だかさっぱりの場所です。
記念植樹
横に記念植樹がされていました。
まだ若い木なので、ここ数年程度の最近のものだと思われます。
横には「高杉力」、「白石明」との連名でした。
もしかして、こちらのお名前の方々は高杉家と白石家の子孫の方々でしょうか。。
高杉晋作の死後
高杉晋作の遺骸は吉田清水山に運ばれ、葬儀は白石正一郎が祭主となって神式で行われました。
こちらの碑は大正15年(1926年)5月に建設されました。
そして平成26年(2014年)12月白石家のご寄付により環境整備されました。
なお、碑銘は書家として著名であった長州藩出身の貴族院議員野村素介との説明がありましたが、私は詳しくないです。
一般的には著名なのかもしれません。
以上です。