防長民のぶらぶら放浪記

山口県内のスポットをふらっと訪れて紹介する地域ブログです。

東京の隅田川と同じ川の名前、山口県周南市の隅田川を下ってみたら思わぬ結果になったので紹介

東京の隅田川と同じ川の名前、山口県周南市隅田川を下ってみたら思わぬ結果になったので紹介します。

あらまし

以前下記の記事で山口県周南市隅田川があることを、発見したところまで記しました。

www.dojo.love

しかしその時は西久米橋付近でとどまり、下流に向かうところまでは実現できませんでした。

よって今回の記事では、西久米橋から海まで下っていくことにしてみました。

西久米橋(にしくめはし)付近

まずは西久米橋ですが、ここは以前と同じなのでコメントすることはありません。

少し下ると、意外に流れている水がきれいなことに気が付きました。

以前は汚かった(失礼)記憶ですが、時間帯によって水が異なるのでしょうか。

上隅田橋(かみすみだはし)付近

こちらが上隅田橋付近です。

”上”隅田橋ということはこの後に下隅田橋、または隅田橋があることがなんとなく想像できます。

もちろん上隅田橋にも、隅田川掲示があります。

川の様子も覗いてみましたが、なかなか田舎の美しい川ではありませんか。

沖角田橋(おきすみだはし)付近

ここで予想外のことが起きます。

まさかの隅田橋ならぬ角田橋なる、川名と橋名の漢字の不一致がありました。

しかも「沖」とはどのような由来があるのでしょうか。

ここから海へはまだまだ先になります。

東京の隅田川も別名は角田川なのでそれはよいとしても、「沖」の文字が付くところは由来が気になります。

しかしここは橋の名前が角田橋なだけで、川の名前は隅田川です。

そしてここでもう1つ、別の発見がありました。

ここで手前の隅田川と、左側の別の川が合流しているのです。

左側の別の川の名前は、地図によれば「西光寺川」という川です。

「西光寺川」のほうが大きな川なので、ここから先はもしかしたら「西光寺川」なのではないかと、この時は思っていました。

鍛治屋橋(かじやばし)付近

そして鍛治屋橋です。

そしてここが隅田川の最大の謎です。

なぜか鍛治屋橋付近で、唐突に川の名前が変わり「鍛冶屋川」になります。

付近に別の支流は見当たりません。

河川改修があったとのことなので、もしかしたら以前はあったのかもしれません。

橋の名前が珍しく古めかしく、「鍛冶屋川」のプレートがわずかに古いことからも、古くからあった付近の川が統合されたのかと推測しています。

塩田橋(しおだばし)付近

県道366号線と交差する、塩田橋付近から西光寺川に戻ります。

ここは予想通りであり、地図通りです。

川の様子は今までと何の変哲もありません。

調査としてはここで終了なのですが、せっかくなのでこのまま海まで確認してみました。

太華橋(たいかばし)付近

太華橋付近で、川が東西に分岐して海に流れるようです。

このあたりから海が近く、潮の香りがとても強いです。

反対側に回って撮影してみました。

どうやら西側のほうが水の流量が多いため、西側に移動しました。

南堀川橋(みなみほりかわはし)付近

南堀川橋は海に最も近い橋です。

橋の反対側は海となります。

西側なので、徳山の工業地帯がとてもよく見えます。

まとめ

西久米橋のプレートからですが、川の流れは下記のように変遷するようです。

  1. 隅田川
  2. 隅田川と西光寺川の合流
  3. 鍛冶屋川
  4. 西光寺川
  5. 太華橋での東西分岐

 

以上です。

山口県下関市の李鴻章道(りこうしょうどう)を歩いたので紹介

山口県下関市李鴻章道を歩いたので紹介します。

李鴻章道とは

李鴻章道とは日清戦争講和条約下関条約)を結ぶ際に清の代表の李鴻章が宿泊地「引接寺」から交渉地「春帆楼」まで移動する際に使われていた道のことです。

なぜ下関の細道に人の名前が付けられたか

下関条約の清側の代表、李鴻章は日本との交渉にあたり最初は宿泊地の「引接寺」から大通りを通って、講和会議の会場の「春帆楼」まで移動していました。

しかしある日、日本人青年「小山豊太郎」から狙撃をされて命を奪われそうになりました。

それから人目につかない細道を通るようになり、この道に「李鴻章道」という名前が付けられました。

李鴻章道の場所

日清講和談判場の「春帆楼」と「引接寺」を結ぶ細道です。

また、海沿いには当時の大通りと思われる9号線が現在もあります。

付近には赤間神宮もあります。

李鴻章道の端から端までの風景

今回は李鴻章が交渉地点「春帆楼」から宿泊地「引接寺」へ帰り道として歩いたルートの風景を紹介します。

普通は宿泊地から交渉地だろ!と思われるかと思いますが、「引接寺」側の地点がやや迷いやすいため、逆方向から紹介します。

日清講和記念館を目印にしたほうが、迷われず歩きやすいかと思われお勧めです。

スタート地点:日清講和記念館

「日清講和記念館」は下関条約の会談で使用された調度品、椅子が講和会議の部屋を再現して展示しています。

また、こちらの日清講和記念館の横に、会談が行われた「春帆楼」も現存しておりますが、現在も営業しており邪魔になるので割愛しました。

案内図

「日清講和記念館」から、少しだけ坂を上ると案内図があります。海が見えて綺麗な景色です。

 

細道ですが足元はしっかり整備されていて、とても歩きやすいです。

後ろを振り返ると「春帆楼」も見えなくなりました。

竹藪がうっそうとした地点

しばらく歩くと、竹藪がありました。こちらの場所は少し暗めです。

中間地点の案内看板

李鴻章道の終端地点をとっくに過ぎたのではないかと歩行者が不安になるころに、案内看板が出てきます。行き止まりまで、まだまだ続きます。

下り階段がある地点

ある程度体験して十分だと判断した場合、途中の階段で下って、別の場所へ移動することもできます。

しかし今回は終端まで紹介するため、先に進みます。

 

終端地点

なんと引接寺はまだ先なのですが、ここで李鴻章道は終わってしまいました。

左は下り階段、右側は登り階段になっています。

右側に上り階段はあります。

しかし看板は「紅葉館 藤原義江記念館」の看板です。

 

「引接寺」へのルート

現在は引接寺は階段を下って、おもての大通りを通って移動できます。

しかし当時、李鴻章はどのように移動したのでしょうか。

以前と道が少し変わっているかもしれません。

 

残念ですが、李鴻章道はここで以上となります。

 

下関戦争で使用された山口県下関市の亀山砲台跡を紹介

亀山八幡宮を訪ねた際に、亀山砲台跡を見つけたので調査結果を紹介します。

亀山砲台とは

幕末に長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカとの間で下関戦争という戦争が起きていました。その時に使用された砲台、16砲台の内の1つが亀山砲台です。

下関戦争では久坂玄瑞の指揮により、豊前田浦沖に碇泊しているアメリカ商船に向かって砲撃が行われました。

またこの亀山砲台の他に有名な砲台としては、「前田砲台」があります。

亀山砲台跡の場所

亀山砲台跡は亀山八幡宮の中にあります。

目の前は唐戸市場で、現在も人が多く活気のある場所です。

数百メートル移動すると、赤間神宮や本陣伊藤邸もあり長州藩としては要所となっている場所なのがよくわかります。

亀山砲台跡の風景

亀山砲台跡

こちらが亀山砲台跡となっている場所です。

現在は看板と横に細長い石碑があるのみとなっています。

(煙草を吸うスペースになっており、若干粗末な扱いになっていることが気になります)

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砲台跡の裏側(階段から)

看板のみだと寂しいので、どこかに痕跡がないか調査してみました。

裏側から見てみると心なしか、石垣が焦げているように見えました。

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砲台跡の裏側(駐車場側から)

亀山八幡宮のすぐ下が駐車場のため、下から撮影してみました。

ここで注目していただきたいのは「世界一のふくの像」ではなく、亀山砲台跡付近の焦げとなります。

こちらも聞く人に聞けば何か分かるのでしょうか。

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亀山砲台前からの景色

イギリス・フランス・オランダ・アメリカに向かって大砲から砲撃した、亀山砲台から関門海峡を見た風景です。

向こう側は福岡県北九州市の門司になりますので、関門海峡が如何に狭い海峡なのかが実感できます。

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狙い撃ちするにはよさそうなのですが、長州川としては、高低差も生かせず、当時は大砲の性能も外国勢力より劣っていたため、想定通りに成果が出なかったとのことです。

看板には社殿をかすめただけだと書かれていましたが、それも長州らしく負けず嫌いでポジティブでよいかもしれません。

では大砲はどこにいったのか?

現在の亀山砲台跡には石碑と看板しかありません。

 

では大砲はどこに行ったのかというと、フランス・パリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)の中庭に展示されているとのことです。

下関戦争は長州が惨敗し外国勢力との圧倒的武力差を知る戦争ですが、戦利品として大砲も持ち帰られてしまいます。

 

ただ1門のみが廃兵院から貸与される形で、功山寺に展示されています。

 

以上です。

東京の隅田川と同じ川の名前、山口県周南市の隅田川を紹介

山口県周南市隅田川を現地調査したので紹介します。

東京の隅田川周南市隅田川

東京の隅田川

荒川から分岐して東京の下町を流れる都市河川です。

荒川水系、最大川幅150メートル程度、総延長23.5キロメートルの1級河川です。

古くから江戸の街では親しまれた川で、文学作品や歌舞伎などの伝統芸能に影響を与えている川となります。

夏になると花火大会が開催され、勝鬨橋東京スカイツリー両国国技館など様々な歴史的文化・財産が存在しています。

周南市隅田川

周南市隅田川は調べても、ほとんど情報がありません。全長や川幅すら、出てきません。

ただ、隅田川の全長は上流の開始地点から、下流で西光寺川と合流する地点までの1.2km程度だと推測します。

1級河川には見えないので、山口県の2級河川一覧を見てみましたが掲載されていませんでした。準用河川または普通河川に該当するのではないかと思われます。

 

付近に何か歴史文化施設や名物がないかと探してみましたが、どうやら「久米くるくるロード」というものがあるようです。

このような状況で仕方がないので、現地の周南市隅田川を調査しに行きました。

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周南市隅田川の場所

西久米橋をまたがる川が周南市隅田川となります。

下流に上隅田橋もかかっています。

周南市隅田川の光景

周南市の現地の様子をいくつか撮影しました。

隅田川の看板

まず隅田川に来てから確認したことは、ここが本当に隅田川であるということです。

どこを見ても断片的な情報ばかりなので、確かな情報が必要だと思いました。

しかし看板に隅田川とかいてあることから、間違いなくここが隅田川であり隅田川に着いたことを確認しました。

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隅田川にまたがる「にしくめはし(西久米橋)」

そしてこの隅田川にまたがる橋の名前は、にしくめはし(西久米橋)というそうです。

橋の幅は5メートルぐらいであり、東京の勝鬨橋が246メートルであることに比べると小規模になります。

ただし、こちらの橋の交通量は徳山方面から下松方面へつながるため、橋の交通量の面では負けてなさそうです。

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周南市隅田川の全体像

川幅は5メートルぐらいでしょうか。

東京の都会慣れした方だと、周南市隅田川は多少小さく感じるかもしれません。

 

余計なお世話かもしれませんが、水質が汚い辺りはよく似ています。

また水量は少なめで小魚が多少泳いでいました。

 

奥には新幹線の高架も見えます!

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その他疑問点のまとめ

いくつか川に関する疑問点を調査してまとめました。

Q.花火大会は行われるのか?

A.無理だと思われます。

Q.屋形船は通りますか。

A.通れないと思います。

 

以上です。

山口県下関市の本陣伊藤邸址(ほんじんいとうていし、やしきあと)を紹介

山口県下関市の本陣伊藤邸址の現地に向かい、調査したので紹介します。

本陣伊藤邸址とは何か、本陣とは

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伊藤家は鎌倉時代から続く下関の名家です。

室町・江戸時代には下関で指導的な立場の家で大きな邸宅を持っていました。

  • 室町時代は下関一帯の交通・流通を掌握していました。
  • 江戸時代は大年寄として、町政を司っていました。

そして伊藤家が本陣と言われるのは、まさしく下関で本陣を兼任しており九州参勤時に休泊所となったことからです

大河ドラマで幕末には吉田松陰と交際があり、坂本龍馬に援助をしたことが有名になりました。

特に坂本龍馬夫婦には部屋を貸し、竜馬の活動を心身ともに支えていました。

補足

少し補足しますと、本陣とは本来「公家、大名など分の高い人が公用で旅をする時に、身宿泊するための施設」です。

後に戦いの際に陣地を構える本営の意味に変わりましたが、ここの本陣とは身分が高い人向けの宿泊施設の意味となります。

本陣伊藤邸址の場所

本陣伊藤邸址の場所は下記の場所になります。

周囲には日清講和条約の会場であった「春帆楼」があります。

本陣伊藤邸址の風景

本陣伊藤邸で現存している部分はわずかですが、できる限り残っている部分を写真記録してみましたので、紹介します。

本陣伊藤邸址の全体写真

現在残っている遺物の全体を映してみました。

残念ながら、第二次世界大戦の戦火によってほとんどが消失しており、現在残っているのは石碑と木、井戸(※)があるのみです。(※井戸は隣の駐車場にあります)

付近の看板に当時間取り図がありますが、以前は隣の駐車場の範囲も含む大きな邸宅だったとのことです。

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※石碑には「邸址」と記載されていますが、「屋敷跡」の意味です。

本陣伊藤邸址の立て看板

隣に「明治天皇西国行幸」との看板がありますが、明治天皇が西国巡幸(じゅんこう)でお屋敷を使用されたされたことを示すものです。

なお、当時の伊藤邸址の井戸は写真右側の自動車の付近の個所にあります。(写真に写っている個所が小さくて申し訳ありません)

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本陣伊藤邸址跡の下部分の状態

足元に目立ったものはありませんでした。目の前にあるのは手洗鉢です。

手洗鉢とは手を洗うための水を入れておく鉢です。

 

その下の石垣らしきものは当時使用されたものであるかは不明です。

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本陣伊藤邸址に生えている柑橘類

上を見上げると、ミカンらしきものがありました。

後からこちらに植えたのか、当時から邸宅に生えていたのだろうかは定かではありません。

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以上です。

床屋発祥之地の石碑、山口県下関市に存在する石碑を紹介

山口県下関市にある床屋発祥之地の石碑について、現地で調査したことを紹介します。

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下関市が床屋発祥の地と言われる所以

下関が床屋発祥の地となった所以について、大筋ですが現地の看板に下記のことが書かれていました。

看板の内容は落ちもあり面白いのですが、発祥の地の理由としてはわき道にそれので、内容を端折って記載します。

鎌倉時代の中期(1264年~1273年)、木京都御所の亀山天皇に仕えていた藤原基晴という武士がいました。

藤原基晴は宝刀を紛失するのですが、その後職を辞し、宝刀を探す旅に長門国下関に来ました。

藤原基晴は親子で下関に来てから、当時下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び、往来の武士を客とした髪結所を開きました。

店の床には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので下関の人々は床の間のある店、転じて「床の場」、さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになりました。

床屋発祥之地の石碑の場所

亀山八幡宮の立派な鳥居に圧倒され気が付かない人も多いかもしれませんが、実は亀山八幡宮の横の狭いスペースに配置されています。

床屋発祥之碑の紹介

床屋発祥之碑の石碑を様々な角度で見てみました。

床屋発祥之碑の全体像

まずは石碑の全体像です。

こちらの石碑は、おそらく床屋で使用する櫛とカミソリを表していますね!(写真を後で見返して気が付きました。)

真ん中に鎮座している丸い物体は何でしょうか。個人的には石鹸かと推測しています。

2022/04/06追記 : 丸い物体は頭をイメージしたものだと判明しました。

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丸い石に刻まれた「床屋発祥之地」

こちらの石鹸と思われる石には「床屋発祥之地」との文字が刻まれていました。

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床屋発祥之碑の後ろに伸びる木

石碑の後ろにある木の写真です。

私の知識ではこちらの木の意味は不明ですが、木の種類を調べると何かわかるかもしれません。

伸びすぎた髪を表すかのようにフサフサした木ですが、髪と一緒で切るタイミングを逃しただけで、何も意味はないのかもしれません。

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長年山口県に住んでいましたが、下関市が床屋発祥の地であることはこのように現地を歩いて、現地の石碑を見てから初めて気が付きました。

何かがあったことを形として残すことは、意外に大事なことなのかもしれません。

基晴の物語の続き

藤原基晴の物語には続きがありまして、実は周囲の協力もあり、宝刀は無事見つかり天皇に返還されたとのことです。

藤原基晴の築いた髪結文化は後世に受け継がれて、江戸時代まで影響を与えました。

 

以上です。

山口県下関市に保存されている引き揚げ船「興安丸」(こうあんまる)の錨を紹介

山口県下関市の路上に保存されている引き揚げ船「興安丸」の錨を紹介について紹介してみます。

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引き揚げ船「興安丸」とは

一見すると何の変哲もない展示品、下手すればどこかの学生の路上展示の芸術作品の1つだと間違えられかねないのですが、この錨には長い物語がありました。

調査してみたことをまとめると、大筋下記のような物語になります。(現地の看板や歴史的な文献を探ると更に詳細なことが書かれているのですが、長くなるので端折ります)

 

興安丸は、もともと1936年10月に三菱重工業長崎造船所で建造された当時、性能設備とも最先端の関釜連絡船です。

関釜連絡船とは、下関と朝鮮半島の釜山を結ぶ連絡船です。

興安丸は第二次世界大戦では他の連絡船が撃沈される中、根拠地を博多港山口県の仙崎港に移しながらも、奇跡的に温存されてきた連絡船です。

 

今日、「興安丸」が引き揚げ船と言われている所以は、終戦後に海外に取り残されていた660万人余りの邦人の引き揚げ、在日朝鮮人250万人余りの帰国輸送などに従事していたことによります。

また活躍はそれだけに留まらず、朝鮮戦争時には舞鶴港から兵士や傷病兵の輸送にあたります。

朝鮮戦争後も政府からのチャーターにより中国、ソビエト方面のシベリア抑留者の引き揚げ輸送を続けました。

 

戦前~戦後までの戦乱の時代を終えて、その後様々な任務を遂行しますが、最後は広島県三原市で解体され波乱の人生(船生?)を終えました。

引き揚げ船「興安丸」の錨の保存されている場所

下記の地図のとおり、下関消防署の前にあります。

下関駅と唐戸市場の海沿いの中間地点の路上です。

ここは「興安丸」の母港、下関港の近くのため展示に選ばれた場所です。

山口県下関に保存されている「興安丸」の錨

興安丸の錨の写真を紹介します。

左側から撮影した興安丸の錨

こちらが「興安丸」の錨です。こちらの写真は錨の左側から撮影しました。

写真の錨の後ろには本来、錨には付属してなさそうなつっかえ棒があります。

そしてこのつっかえ棒と錨の色が同じであることを考えると、錨全体の白色は後から塗り替えたように見えます。

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右側から撮影した興安丸の錨

錨を右側から撮影した写真です。

左側の松の木とのコラボレーションが美しいです。

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正面から撮影した興安丸の錨

錨を正面から撮影した写真です。

真ん中の棒をシャンクというそうですが、継ぎ目のところに注目すると、シャンクと両端のアームは別々に可動するのが分かります。

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2つある「興安丸」の錨

先ほど山口県下関に保存されている~”と書いたのは意味がございまして、実は広島県にも「興安丸」の錨があります。

こちらは写真を用意できてないのですが、広島県三原駅の近くにあるようです。

もちろん、三原市にある理由はここで「興安丸」が解体されたからです。

 

山口県下関で就航し、広島県三原市で解体されるまで34年間活躍した船の錨でした。

 

以上です。

山口県柳井市にかつて存在した周防銀行本店(すおうぎんこうほんてん)の紹介

山口県柳井市に、かつて本店を置き県下最大の銀行であった、旧周防銀行の本店建物を訪ねたので紹介します。

周防銀行とは

周防銀行は、明治31年、地元有力者らの出資により設立された銀行です。

一時、百十国立銀行(現山口銀行)を抜き、明治末期には県下最大の銀行にまでなりました。

しかし、県下多数存在していた他の銀行同様、その後に経営が傾き大正3年に倒産しました。

※余談ですが、百十とは当時の国立銀行の1から割り当て順の番号です。今でもその名残で番号を冠した銀行が全国各地にあります。

旧周防銀行本店の所在地

柳井駅から北に500メートル程のあたりのところ向かった先にあります。

徒歩で十分に向かえる場所となります。

また、他の観光スポットの入り口的な位置、かつ案内所の役割にもなっているので、どちらに観光されるにしろ、最初にこちらに行くのがおすすめです。

※現在は柳井市街並み資料館として利用されています

旧周防銀行本店の外観

付近の看板によれば、山口県内で最も古い銀行建築で、明治40年(西暦1907年)に建物が建設されました。銀行自体の設立は明治31年なので、設立から9年後の建設です。

その建築は日本銀行技師の長野宇平治によってなされ、現在は登録有形文化財となっています。(これは個人的な感想ですが、私はこの看板で生まれて初めて日本銀行技師という仕事を知りました。)

なお、長野宇平治は山口銀行の本社建築も手掛けています。

建物は以前は山口銀行の所有でしたが、現在は寄贈されて、柳井市町並み資料館として使用されています。

そして、建物の中は無料で自由に観覧できます。

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外観はモルタル塗りの洋風で、中も白い壁と木が調和した美しい造りです。

また、中の展示物も柳井市の街の模型図、柳井市出身の歌手のゆかりの品や、ピアノなど見ごたえある展示です。

 

旧周防銀行本店と油商「むろや」との関連

周防銀行本店の付近には油商の豪商「むろや」の屋敷があります。

一時期は西日本最大級の油商として数えられ、その勢力は自ら帆船を持つほどであり、小田家は士分格に取り立てられ、苗字帯刀を許されました。

柳井は油商を中心として、海運の要衝として発展した豪商が多く住む商業の街でした。

 

周防銀行は、その油商「むろや」の小田伴輔が柳井の資産家に呼び掛けて、資本金30万円をかき集め、誕生しました。

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周囲の観光スポット

旧周防銀行を見終わった後は、先ほどの油商「むろや」、柳井の「白壁町並み通り」を通るのが順路かと思われます。

白壁と金魚の提灯が美しい街並みです。

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以上です。

美祢市美東町大田の小郡萩道路|大田インターチェンジ付近の維新の遺跡のご紹介

小郡萩道路ができたのに伴い、大田インターチェンジができました。

山陽自動車道から萩市へ行くときは、大田で一回降りて休憩後に、萩に向かう人も多いのではないでしょうか。

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しかし太田インターチェンジの付近にも、維新の遺構が存在します。

そこで、どのような維新の遺跡があるのか、一覧化してみました。

大田・絵堂戦役(おおだ・えどうせんえき)とは

この地域の観光は必ず「大田・絵堂戦役」が出てきますので、簡単な予備知識が必要です。

 

江戸末期、長州藩は最初から全員がヒャッハー!幕府を倒そうぜ!という改革意識だったわけではありませんでした。

そのため、長州藩内で改革派と保守派が激しく争い、保守派が一掃されたのが「大田・絵堂戦役」です。(改革派と保守派は、別名で正義派、俗論派という言い方がされています。また中立派もいました。)

結果として維新に向け、同郷の多くの犠牲が払われました。

金麗社(きんれいしゃ)

大田・絵堂戦役の際に、高杉晋作山縣有朋伊藤博文らが率いる諸隊が萩政府軍と戦う際に、本陣を置いた神社です。

(なんと戦役の前の名称は天満宮で、祭神は天神様です)

呑水垰(のみずのたお)

山縣有朋(山県狂介、後の総理大臣)率いる諸隊と、萩政府軍が激戦を繰り広げた場所です。

この戦いでは銃による違いが諸隊と、萩政府軍の戦いに決定的な差を生みました。

 

現在は石碑のみがあります。※大田絵堂戦跡記念碑が建っています。

以前は池の端に茶屋があったとのことですが、現在は、唯々池があるだけの場所になりました。

※銃についてはミニエー銃、ゲーベル銃、火縄銃など、様々な銃が移行する時期だったこともあり、諸説あります。長登銅山文化交流館に実物が展示されていますので、見てみるとよいでしょう。

旧官修墳墓(きゅうかんしゅうふんぼ)

大田・絵堂戦役で戦死した諸隊側の17名の墓があります。場所は光明寺の中です。

撰鋒隊士(せんぽうたいし)の墓

萩政府軍、撰鋒隊士2名の墓があります。

現在はなんと、畑の間に墓があります。

  • 水津岩之允・・・萩藩八組士(大組、または馬回)
  • 駒井小源太・・・萩藩八組士(大組、または馬回)

大田・絵堂戦跡記念碑

大田・絵堂戦役における大木津・川上の戦の跡地で、現在は石碑のみです。

大木津(おおこつ)、川上(かわかみ)とは、この一帯の地名で現在も使用されている地名です。

※紛らわしいですが、呑水垰の大田絵堂戦跡記念碑とは別の記念碑です。

後書き

絵堂・太田戦役は意外に歴史の知識が必要で、今回は明らかな力不足でした。

 

今残っている遺構も老朽化し、地元の生きた知識を持った詳しい方もお年を召した方が多くいらっしゃると聞いています。

また近々お話を聞いて、再度挑みたいと思います。

 

また、小郡萩道路の次のインターチェンジ、絵堂インターチェンジは萩政府軍の本陣になります。

こちらも記事にしてみたいと思います。

 

以上です。

山口県周南市(徳山)で東京・神奈川と同じ地名となっているスポットを一覧化

徳山の地名に東京・神奈川の地名が使われている経緯が、あちこちの記事で見当たります。この記事ではその地名を一覧化してみました。

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なぜ東京・神奈川の地名が山口県の徳山にあるのか

徳山の街は、かつて海軍の燃料廠(ねんりょうしょう)という燃料の備蓄施設がありました。(なお、今も石油が流出しているという話はありますが、別件なので省略します)

そのため太平洋戦争中に米軍からは攻撃の的となり、徳山の街は壊滅的な打撃を受けました。

 

そこから戦争が終わった後、ボロボロになった徳山の街に復興を願い、東京の地名をつけて東京のように繁栄を願った経緯があります。

地名の一覧を作成する理由

実は上記のような徳山の地名に、東京・神奈川の地名が使われている経緯は山口県内だとよく聞かれます

ところが東京・神奈川の地名が徳山にどれくらいあるのかについては、誰もよくわからないように見受けられました。

 

そこで自分の東京にいた時代の記憶をたどりながら、できる限り一覧化してみました。

東京・神奈川と同名の徳山の地名一覧

以下が東京神奈川と徳山の同名の地名一覧です。

随時追記していきます。

地名 住所 地図 備考
銀座 山口県周南市銀座  
新宿 山口県周南市新宿通  
原宿 山口県周南市原宿町  
代々木 山口県周南市代々木通 代々木公園もあります
有楽町 山口県周南市有楽町  
千代田 山口県周南市千代田町  
青山 山口県周南市青山町  
昭和通 山口県周南市昭和通  
晴海 山口県周南市晴海町  晴海ふ頭のネーミングの建物、看板も点在 
平和通 山口県周南市平和通  
糀町 山口県周南市糀町 東京は「麹町」
住吉 山口県周南市住吉 <  
臨海 山口県周南市臨海町  りんかい線は通っていませんが、近くのフェリーで大分に行けます。
御幸通 山口県周南市御幸通 東京では「みゆき通り」
中野 山口県周南市中野  
隅田川 山口県周南市久米 地図は隅田川付近の上隅田橋
横浜 山口県周南市横浜町

神奈川県の地名です。

偶然なのか、中華のお店が多いです。

川崎 山口県周南市川崎  神奈川県の地名です。
桜木 山口県周南市桜木  神奈川県の地名です。

 

一覧にしてみましたが、地名が一致していることが偶然のケースと、本当に東京から持ってきたケースがあるとのことです。

中央町も可能性はありますが、割とどこの市町村にもあり無理がありそうなので、一覧上に載せるかは保留しました。

後記

都内だと住むのが大変そうな場所ばかりですが、徳山の新宿や銀座だとリーズナブルな家賃で、比較的気軽に住めそうだと感じました。

リモートワークなどで地方への移住を検討している方は、徳山も候補に入れてみてはいかがでしょうか。

 

以上です。