山口県下関市の路上に保存されている引き揚げ船「興安丸」の錨を紹介について紹介してみます。
引き揚げ船「興安丸」とは
一見すると何の変哲もない展示品、下手すればどこかの学生の路上展示の芸術作品の1つだと間違えられかねないのですが、この錨には長い物語がありました。
調査してみたことをまとめると、大筋下記のような物語になります。(現地の看板や歴史的な文献を探ると更に詳細なことが書かれているのですが、長くなるので端折ります)
興安丸は、もともと1936年10月に三菱重工業長崎造船所で建造された当時、性能設備とも最先端の関釜連絡船です。
関釜連絡船とは、下関と朝鮮半島の釜山を結ぶ連絡船です。
興安丸は第二次世界大戦では他の連絡船が撃沈される中、根拠地を博多港、山口県の仙崎港に移しながらも、奇跡的に温存されてきた連絡船です。
今日、「興安丸」が引き揚げ船と言われている所以は、終戦後に海外に取り残されていた660万人余りの邦人の引き揚げ、在日朝鮮人250万人余りの帰国輸送などに従事していたことによります。
また活躍はそれだけに留まらず、朝鮮戦争時には舞鶴港から兵士や傷病兵の輸送にあたります。
朝鮮戦争後も政府からのチャーターにより中国、ソビエト方面のシベリア抑留者の引き揚げ輸送を続けました。
戦前~戦後までの戦乱の時代を終えて、その後様々な任務を遂行しますが、最後は広島県三原市で解体され波乱の人生(船生?)を終えました。
引き揚げ船「興安丸」の錨の保存されている場所
下記の地図のとおり、下関消防署の前にあります。
下関駅と唐戸市場の海沿いの中間地点の路上です。
ここは「興安丸」の母港、下関港の近くのため展示に選ばれた場所です。
山口県下関に保存されている「興安丸」の錨
興安丸の錨の写真を紹介します。
左側から撮影した興安丸の錨
こちらが「興安丸」の錨です。こちらの写真は錨の左側から撮影しました。
写真の錨の後ろには本来、錨には付属してなさそうなつっかえ棒があります。
そしてこのつっかえ棒と錨の色が同じであることを考えると、錨全体の白色は後から塗り替えたように見えます。
右側から撮影した興安丸の錨
錨を右側から撮影した写真です。
左側の松の木とのコラボレーションが美しいです。
正面から撮影した興安丸の錨
錨を正面から撮影した写真です。
真ん中の棒をシャンクというそうですが、継ぎ目のところに注目すると、シャンクと両端のアームは別々に可動するのが分かります。
2つある「興安丸」の錨
先ほど”山口県下関に保存されている~”と書いたのは意味がございまして、実は広島県にも「興安丸」の錨があります。
こちらは写真を用意できてないのですが、広島県の三原駅の近くにあるようです。
もちろん、三原市にある理由はここで「興安丸」が解体されたからです。
山口県下関で就航し、広島県三原市で解体されるまで34年間活躍した船の錨でした。
以上です。