小郡萩道路ができたのに伴い、大田インターチェンジができました。
山陽自動車道から萩市へ行くときは、大田で一回降りて休憩後に、萩に向かう人も多いのではないでしょうか。
しかし太田インターチェンジの付近にも、維新の遺構が存在します。
そこで、どのような維新の遺跡があるのか、一覧化してみました。
大田・絵堂戦役(おおだ・えどうせんえき)とは
この地域の観光は必ず「大田・絵堂戦役」が出てきますので、簡単な予備知識が必要です。
江戸末期、長州藩は最初から全員がヒャッハー!幕府を倒そうぜ!という改革意識だったわけではありませんでした。
そのため、長州藩内で改革派と保守派が激しく争い、保守派が一掃されたのが「大田・絵堂戦役」です。(改革派と保守派は、別名で正義派、俗論派という言い方がされています。また中立派もいました。)
結果として維新に向け、同郷の多くの犠牲が払われました。
金麗社(きんれいしゃ)
大田・絵堂戦役の際に、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文らが率いる諸隊が萩政府軍と戦う際に、本陣を置いた神社です。
(なんと戦役の前の名称は天満宮で、祭神は天神様です)
呑水垰(のみずのたお)
山縣有朋(山県狂介、後の総理大臣)率いる諸隊と、萩政府軍が激戦を繰り広げた場所です。
この戦いでは銃による違いが諸隊と、萩政府軍の戦いに決定的な差を生みました。
現在は石碑のみがあります。※大田絵堂戦跡記念碑が建っています。
以前は池の端に茶屋があったとのことですが、現在は、唯々池があるだけの場所になりました。
※銃についてはミニエー銃、ゲーベル銃、火縄銃など、様々な銃が移行する時期だったこともあり、諸説あります。長登銅山文化交流館に実物が展示されていますので、見てみるとよいでしょう。
旧官修墳墓(きゅうかんしゅうふんぼ)
大田・絵堂戦役で戦死した諸隊側の17名の墓があります。場所は光明寺の中です。
撰鋒隊士(せんぽうたいし)の墓
萩政府軍、撰鋒隊士2名の墓があります。
現在はなんと、畑の間に墓があります。
- 水津岩之允・・・萩藩八組士(大組、または馬回)
- 駒井小源太・・・萩藩八組士(大組、または馬回)
大田・絵堂戦跡記念碑
大田・絵堂戦役における大木津・川上の戦の跡地で、現在は石碑のみです。
大木津(おおこつ)、川上(かわかみ)とは、この一帯の地名で現在も使用されている地名です。
※紛らわしいですが、呑水垰の大田絵堂戦跡記念碑とは別の記念碑です。
後書き
絵堂・太田戦役は意外に歴史の知識が必要で、今回は明らかな力不足でした。
今残っている遺構も老朽化し、地元の生きた知識を持った詳しい方もお年を召した方が多くいらっしゃると聞いています。
また近々お話を聞いて、再度挑みたいと思います。
また、小郡萩道路の次のインターチェンジ、絵堂インターチェンジは萩政府軍の本陣になります。
こちらも記事にしてみたいと思います。
以上です。