山口県周南市の「孝女阿米像」(こうじょおよねぞう)を紹介します。
孝女阿米とは
「都濃の三孝女」の一人です。
看板には、
寛政3年(1971年江戸時代)、徳山市橋本町に生まれました。
6歳の時に母親が亡くなったときに父親の足でまといになるのを避けるため、母方に引き取られました。
お米が12歳の時に父親が病にかかり看護のために帰宅し、父親の養成のために一生を尽くしました。
当時この行いを見る者、聞く者、感嘆。
時の徳山藩主よりは数回ご褒美として米穀や恩賞を賜りました。
父親に孝養を尽くし31年、お米が32歳の頃父親がこの世を去りました。
お米さんは後年病気にかかり、父親の墓の傍らに埋めるように頼み、後に徳応寺に葬られました。
・・・というような由来が、書かれていました。
現代でいう「ヤングケアラー」なのでしょうが、当時はそういう家庭はよくあったのでしょうね。
現代の価値観で昔の人を責めるのはフェアではなく、私はここで何も述べません。
ただ、お米さんが純粋で、周りの人に慕われる人だったのは間違いないと思いました。
孝女阿米像の付近の撮影
こちらの石碑群は古いものから新しいものまで、様々なもので構成されているようです。
それぞれの意味がよくわからないですが、とにかくお米さん関連でいっぱいです。
正面像
正面に「旌孝阿米碑」?と書かれた、右から左に読む石碑が建っていました。
お米さんの石碑の周りは花や石碑がとても豪華に配置されていて、何か今も昔も人を引き付けるものがあるように感じられます。
左のお地蔵さん
左側はお地蔵さんが陣取っており、お米さんを見ています。
撮影はしていませんが、中には線香を立てる場所がありました。
右側のお米像
右側にお米像が配置されて、父親を背負っています。
お米像の台座の付近にはお花、詩、海抜表示「8.3m」があります。
後ろの石
後ろに屏風のように、絵が描かれた大きな石が置かれています。
こちらの正体はよくわかりませんが、とても古そうには見えます。
お米さんの家の様子が描かれているのでしょうか。
後ろ側
この後ろ側が平たく丸見えです。
今は駐車場ですが、もともとは建物があって壁だったんでしょうね。
クッキーの裏側を見たような気分です。
アクセス
JR徳山駅から歩いて15分ぐらいの場所にあります。
東川を通り過ぎたところにあります。
なお由来の看板の通り、お米の墓のほうは現在も周南市内の徳応寺にあります。
以上です。