今回の記事では弘鴻(ひろ ひろし)という下松の出身の和算家(数学や暦法)を紹介します。
弘鴻という人物
1829年(文政12年)、現在の下松市、当時の長州徳山藩に仕えた、弘鴻という名の優れた和算家がいました。
名前の読み方は「ひろひろし」です。
著書を多数出しており、四境戦争で暦が手に入らなかったときに自分の知識をもとに暦を作成し農民の農作業を支援した功績がある和算家とのことです。
弘鴻の石碑の所在地
下松の生誕地には石碑ぐらいしか残っていないとのことです。
ただ、石碑だけでも見に行こうと思ったのですが思ったより場所探しに苦戦したので、同じように道に迷う方を生まないように、所在地を備忘録として記録します。
残念ながらマップ上にもうまく出てこないようですが、場所は下松市の花岡八幡宮の参道の途中、花岡八幡宮の二の鳥居の付近です。
「花岡八幡宮」二の鳥居の付近で「花岡天満宮」の付近にひっそりありますので、探してみましょう。
弘鴻の石碑
このように石1個、何やら「弘鴻(ひろ ひろし)の碑」が置いてあります。
なのですが、解読以前の問題で、表面が雨や泥なのか汚れているのか、文字が良く読めない状態でした。
上の部分は右から「弘鴻翁之碑」と辛うじて読めます。
内容を石碑から読むのは諦めました。
この花岡八幡宮の途中に突然石碑が現れる形で配置されているのは不思議に見えました。これは隣の看板から察するに、弘鴻は「下松の花岡で生誕~」との記載があるので、おそらくその理由で配置したのだと想像しました。
これでも「花岡で生誕~」とぼんやりした記載で、この絶妙な分かりづらい位置に配置されたのは少々気になりました。
なのですが、付近に「花岡天満宮」があり、こちらは学問で有名な天神様がまつられる神社であることに注目しました。
なので、その途中に数学者の石碑があるのは、偶然ではなく石碑を配置した人の意図が感じられました。
弘鴻の生誕~教授になるまでの動き
弘鴻は下松で幼少から数学の才能があり、萩の明倫館で学んだとのことです。
その後は大阪で勤務して、のちに萩の明倫館に呼び戻され、(旧制)山口中学校や師範学校の教授となったとのことです。
その後、(旧制)山口中学校や師範学校の教授となったとのことです。
弘鴻の功績について
数学者としての功績は農民のための暦の作成、教育のための著書の執筆などが中心で、新規性のある発見等は、調べた限り見当たりませんでした。
しかしながら、人々が困ったときに必要なものを準備し人助けし、特に農民に喜ばれたとは最大の功績に思えました。
以上です。