赤郷村とは
wikipediaは下のような記載しています。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、絵堂村・赤村の区域をもって発足。
1954年(昭和29年)10月1日 - 大田町・綾木村・真長田村と合併して美東町が発足。同日赤郷村廃止。
この一帯は最近引っ越してきた方や若い方々にとって、地名一つとっても赤郷なのに赤と呼ばれる地域があったり、絵堂と呼ばれながら絵堂小野と呼ばれていたり、不思議な地域だと思われることがあるみたいです。
しかしそれを伝えるべく世代の人々は県外へ流出し、残った人々は高齢化し次の世代へ伝承されないのが現状です。
そのため、私も少しですがこれまで過ごしてきた範囲、調べた範囲ではありますが、わかっている範囲で情報を追記していこうかと思います。
赤郷村の位置
下の図が現在の美祢市の全体像です(手書きなので拙くて大変申し訳ありません。。)
(1)の部分が旧赤郷村です。(2)は旧大田町、(3)が旧綾木村、(4)が旧真長田村です。
また、(1)(2)(3)(4)のまとまりが旧美東町です。
秋芳町も秋吉という名で皇室といろいろありますが今回は赤郷村に話題を絞ります。
美祢市も省略します。
赤郷村関連の年表
- 1625年(寛永19年):赤郷八幡宮が現在の場所に移設。※創建は769年頃
- 1637年(寛永14年):徳川幕府の命により、萩藩が銭屋鋳銭所を銭屋に造る。
- 1665年(寛文5年):法香院が絵堂へ移設。
- 1797年8月15日(寛政九年):絵堂村北河内に廻国聖木喰行道(五行明満)が立ち寄り、日光・月光両菩薩立像を彫る。
- 1865年1月7日(慶応元年):高杉晋作の功山寺挙兵により「大田絵堂の戦い」が始まる。※下関と萩を結ぶ赤間関街道の途中にある絵堂宿は萩藩俗論派が滞在しますが、正義派から襲撃を受けます。
- 1889年4月1日(明治22年):町村制の施行により、絵堂村、赤村が赤郷村に統合。
- 1921年(大正10年):大正洞が発見される。
- 1947年:赤郷小学校開校
- 1954年10月1日 (昭和29年): 大田町・綾木村・真長田村・赤郷村が合併して美東町になる。
- 1960年3月31日:美東町立赤郷中学校閉校 ※この際大田中、綾木中、真長田中も閉校し美東中学校に統合されました。
- 1977年8月:秋吉台サファリランド開園
- 1978年:二反田カキツバタ群生地が山口県自然記念物に指定
- 1993年3月:秋吉台オートキャンプ場開場
- 2008年3月21日:(平成20年):美祢市、秋芳町、美東町が合併し美祢市となる(吸収合併)。
- 2011年5月28日:小郡萩道路 秋吉台IC - 絵堂IC間開通。
- 2019年3月31日:美祢市立赤郷小学校閉校 ※大田小学校に統合されました。
※絵堂村、赤村の成り立ちについては出典が見つかりませんでした。ただ1661年ごろには既にあったようです。
※小学校については実際には赤郷地区に明治期から複数存在していましたが、すべて含めると小中学校の年表となるため、最後の1校ずつのみに絞り込みました。
明治以前のことについては、「赤郷古老ものがたり」の書き写しが下記のリンク先様にあり、こちらを参照するとよいと思います。
※私が原文のコピーを入手できていないというのもありますので。
なお、リンク先に登場する地名は今も生きている地名です。
赤郷村は消えたのか?
時代の流れにより、平成の大合併を含めて合併を繰り返しましたが、赤郷という名前は地名や施設名として随所として生きております。
名物
・カルスト台地が生み出す赤土がおいしいゴボウを生み出す秘訣となっています。
代表的な山
- 大谷山
- 桂木山
山口県の登山の名所です。今は廃校となりましたが、地元の小学校の登山コースでした。また同校の校歌にも含まれていました(3番)。
- 北山
- 烏帽子岳
- 真名ヶ岳
- 鞍掛山
- 権現山
- 城前山
- 寺山
主な地名
- 赤
- 絵堂
- 小野
- 銭屋
史跡
赤郷八幡宮
別記事を用意しました。
赤間関街道中道筋
銭屋鋳銭所遺跡
萩藩が造った寛永通寳の鋳造所跡。
全国8か所の鋳造所のうちの1つ。現在は焼き払われてしまい、ハゼの木が残るのみとなっている。
天然記念物 景清洞
壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将・大庭景清が潜んでいたといわれる洞窟です。
大正洞
二反田ため池のカキツバタ
大田川の源流の麓にあるカキツバタ群生地です。
文化
美東町佐山の山神枡山神枡
北河内神楽舞