防長民のぶらぶら放浪記

山口県内のスポットを訪れて紹介する地域ブログです。

山口県周南市の湯野温泉の湯野温泉薬師と源泉について紹介

山口県周南市には湯野温泉という温泉があります。

少し目立たないところにある温泉ですが、温泉に浸かるだけでなく、小さくとも様々なスポットがあり、是非ともめぐってほしい場所でもあります。

 

今回はその湯野温泉の源泉スポットを紹介してみます。

湯野温泉とは

源泉はぬる湯(なんと23度~37度)ですが、山口県には珍しいラジウム温泉の温泉です。

現在2か所の施設で日帰り温泉として営業しており、温泉に浸かることが可能です。

近くに足湯もあり、タオルさえあれば気軽に立ち寄れます。

もちろんこれらの温泉は源泉を熱めに温度に調整がしてあり、冬でも楽しめるようになっています。

また、この土地は坊っちゃんのモデルとされる、弘中又一の出身地でもあります。

文学好きの方はそちらから攻めてみるのが良いかもしれません。

 

そして湯野温泉の温泉はお持ち帰りすることが可能な場所があり、今回はそこにスポットを当ててみたいと思います。

湯野公園

さて湯野温泉街の中央には、湯野公園があります。

一見人気のない殺風景な公園です。

ただ、公園の奥にはこの街にとって、とても大事なものがあります。

公園の真ん中をまっすぐ川に進むと薬師橋という橋があるのでそこを渡ると、湯野温泉薬師に向かうことができます。

一見するとただのとても小さな神社(?)なので、温泉に来た人はだいだいスルーしてしまうのです。

ただこれがなかなか湯野温泉の由来にもつながる、場所らしいのです。

看板

近づくと由来の看板が置かれていました。

看板にいろいろ書かれていますが1文に要約すると、

河村三五兵衛という人が湯気が立ち上っているところを、掘り進めていくと薬師如来像と温泉が現れた・・・

という内容です。

乱暴なまとめ方ですみませんが、伝説とかお告げとか細かい内容は現地に記載がありますので、是非とも現地においでください。

 

毎年4月に薬師祭りも行われているとのことなので、4月に来てもいいかもしれません。

薬師から出てくる温泉の源泉

湯野薬師の建物の横には薬師様が鎮座しております。

そして、こちらの薬師様の横から源泉がこんこん湧き出ており、硫黄の香りがします。

こちらに鎮座されている薬師様は温泉と一緒に出てきた薬師様なのでしょうか。

横から出ている温泉を触ってみると・・・

さすが、ぬる湯の名湯だけあって、とてもぬるいです・・

別の意味でびっくりしました。

お湯なのか?というレベルで、近いところでいうと夏のプールという感じのぬるさです。

成分表

成分表は劣化していてよく読めませんでしたが、辛うじて「湯野温泉」という字は見えるので、温泉ではありそうです。

小さな川

薬師如来様の手元から出てきた温泉は長いこと流れていたのでしょう、硫黄と思われる白い跡があったのですが、その先を見てみるとこちらの小さな川につながっていました。

木でできた別の立て看板

なお、建物の内側に、ほうきと木でできた立て看板があったのですが、この温泉はお持ち帰り可能と記載がありました。

その内容は「昨今運営が厳しいのでご浄財をお願いしたい」という内容でした。

温泉を入れる容器を忘れたので温泉は持って帰らなかったですが、十分楽しませていただいたので、私もお金を賽銭箱に入れました。

なお、飲んだらおいしいという情報がインターネット上にありますが、飲んでもいいという情報は現地に書いてないので、この記事ではお勧めしません。

場所

場所は山陽本線戸田駅から徒歩1時間程度の場所になります。

徒歩だと田舎道で時間がかかるため、安全を考えると、現実的には戸田駅からタクシーを使うのが良いかと思います。

※ちなみに戸田は難読文字で「へた」と読みます

観光コースとしては、

ソレーネ周南で食事をして、温泉宿泊まるのを目的として、山田屋本家、湯元温泉足湯、弘中又一記念公園などを見て回るのが良いかなと思います。

 

以上です。

 

山口県山口市の井上公園 湯田温泉足湯を紹介

山口市湯田温泉には数多くの無料の足湯があります。

その中の一つで大きな道路から離れており、気軽に入りやすい井上公園の足湯を紹介してみます。

湯田温泉の足湯はどれもいい足湯だったのですが、ここはいくつかいった中で気軽に行ける足湯です。

井上公園 湯田温泉足湯のアクセス

井上公園足湯の風景

温泉の湯は、狐のオブジェの足元の石から出ます。

湯田温泉市街はあちこちに狐のオブジェが置かれており、ここは湯田温泉発見の由来通り狐が温泉に浸かっています。

(※注意書きにもありますが、自分が連れてきた動物は温泉につけてはいけません。元々狐が使っていたことが湯田温泉の由来にもなっているんですけどね・・)

 

湯田温泉は非火山性の温泉にも拘らず、源泉が60度~72度程度になるため、直接触ると結構な熱さです。

湧き出たアツアツの温泉の湯は、石伝いに流れてきてきます。

これがなかなか熱くて体がとても温まります。

ちなみに横に見えるのは歩道と、湯田温泉駅からの細い道路です。

そしてここは公園なので、子供たちがボールをけっていたり走り回っています。

ここ、湯田は生活と温泉が一緒になっています。

温泉は、このように広々とした石枠の中に流れていきます。

ざっと見た感じ10人ぐらいは入れそうな足湯ですが、満杯に埋まっている光景はまだ見たことはないです。

それはきっと湯田温泉市街に同じような足湯が何か所も設置されており、選び放題なことが理由の一つでしょう。

反対側の端は行き止まりになっていますが排水溝らしきものが下に見えます。

こちら側はややぬるめなので、自分の好みによって位置を変えるとよいかと思います。

湯田温泉は時々入るのが辛いぐらい、熱湯が出る日があります。その時はさすがに誰も入っていませんでした。)

私もぬる湯派なのでこちら側が好きで、観光で歩き回る方や、長時間入りたい方はこちらをお勧めしたいです。

なお、道路との間には壁が作られており、そこに足湯の高架や足湯マップが貼られています。

この情報をもとにあちこち探索するのも良いかと思います。

足湯のについては近場の大学の調査について書かれているので、なかな楽しめるのではないかと思います。’(私は勉強になりました)

注意点

最後に注意点です。

  • 足をタオルを忘れずに持っていきましょう。一応近くのコンビニにも売っています。
    • これは現地の注意書きには書かれないことなのでうっかり忘れがちです
  • 飲食、喫煙はやめましょう。
  • 動物の入浴は禁止です。

細かいことは現地の注意書きを読みましょう。

 

以上です。

山口県長門市の長門湯本温泉にある公衆洗濯場跡を紹介

長門湯本温泉は山口県を代表する温泉「防長四湯」の1つです。

今はきれいに整備され温泉自体が着目されていますが、ひっそりと残った歴史の痕跡がありますので紹介してみます。

長門湯本温泉

温泉街の端っこになりますが、こちらが長門湯本温泉の中心を流れる音信川(おとずれがわ)から、温泉街全体を撮影した写真となります。

この温泉は山口県内では最も古く、室町時代の1427年から存在する温泉となります。

音信川を挟んで温泉地がありますが、現在はリニューアルされており、橋の他に飛び石が用意されていたり、遊び心がある景観となっています。

ちなみに今世界中で話題となっている某国の大統領は、山口県を訪れた後ここの温泉地を訪れました。

公衆洗濯場跡

古くからあるこの温泉も次々リニューアルされ、古いものは全てなくなってしまったのかというと、共同浴場の「恩湯」(おんとう)は街の名物として残されており、「礼湯」(れいとう)も源泉は残されていました。

他にも、公衆洗濯場跡が以前の面影として大切に残されていましたので、今回紹介してみます。

川へ下る石段

まずは石段を下りてみると、看板で公衆洗濯場跡について説明書きがありました。

これがないと基礎の部分がむき出しなのかなと思ってしまいます。

看板によれば、もともと大正初期は洗濯場として整備されて、地元の人が温泉を利用して楽しく洗濯をされていた場所とのことでした。

なんと恩湯の歩道の真下にあるので、川まで降りないと公衆洗濯場跡の存在に気がつかないです。

温泉を利用した公衆洗濯場自体は別府にもあったので、全国的なモノだと思われます。

左側

階段を下りて左側から撮影してみました。

上部にスポットライトみたいなものがあるので、夜間は煌々と照らされるのだと思います。

右側

右側からも撮影してみました。

なお、この場所は洗濯機が普及して使用されなくなり荒れたものを、音信川河川公園整備事業で改修して築庭されたとのことです。

写真を改めてみて気づいたことは、後ろに屏風みたいなものがあり、その裏にガラスみたいなものがあるということでした。

ということはもしかしたら温泉施設の一部なのかもしれませんね。

残念に思ったこと

ただ、残念なことに今は洗濯場としても、温泉としても使用することはできないようです。

庭といっても、ただ以前の姿を固定しただけのような・・・。

なんとか再利用するか、以前の利用者のことを思うなら、せめて溜まったままの雨水みたいなものをどうにかしてほしいなと思いました。

公衆洗濯場跡の場所

美祢線長門湯本駅から、徒歩10分程度のところにあります。

温泉に入ったついでに立ち寄るのが良いスポットかなと思いました。

 

以上です。

山口県の防府天満宮にある至誠のざくろを紹介

山口県防府天満宮は日本三大天神です。

ただ、この辺の話は他サイトでもよく説明されている話なので、防府天満宮の中にある「至誠のざくろ」を紹介してみようと思います。

至誠のざくろの植えられている場所

ざくろの場所まで防府駅から防府天満宮に向かう必要があります。

そして防府天満宮の東門側に至誠のざくろが植えられています。

移動時間は防府駅から、徒歩で25分ぐらいとなります。

至誠のざくろとは

大河ドラマ「花燃ゆ」を記念して、防府市群馬県前橋市防府天満宮の梅を寄贈しています。

その返礼として、群馬県前橋市から寄贈されたざくろのことを至誠のざくろといいます。

群馬県初代県令を務めた長州藩出身の楫取素彦は至誠の人と称えられており、そのことが「至誠のざくろ」の命名の由来となっているようです。

群馬においてざくろは子孫繁栄の木として珍重されており、幕末のころは植樹が推奨されていたとのことです。

(おおよそそんなことが付近の看板に書かれていました)

ざくろとは

補足ですが、ざくろとは果物の一種で、中に粒が沢山詰まった果実です。

収穫時期は10月上旬~11月中旬です。

今回紹介するざくろは9月頃の写真で青々としていました。

別に防府天満宮に果実を取りに来たわけではないですが、どうやら果実が付くまではまだ時間がかかるようです。

防府天満宮の至誠のざくろの様子

例のごとくあらゆる角度から撮影してみました。

ざくろの木の全体像

全体を正面から撮ってみました。

看板と、後ろに小さな若年のざくろの木があります。

看板で防府市群馬県前橋市の関係がどことなく紹介されていました。

ざくろの木の正面

正面からざくろのみを撮影しています。

大きさはまだ2メートルぐらいで、ざくろがなるには厳しい大きさです。

ざくろの木の左側

左側に歩道があるので、歩道のある側からざくろを撮影してみました。

この角度が一番写真写りがいいと思いました。

ざくろの木の裏側

ざくろを後ろ側から撮影してみました。

とりあえず後ろから撮影しても木自体に変化はないですね。。

楫取素彦さんの銅像

ちなみにざくろの近くには冒頭で説明の楫取素彦さんと美和子さんの銅像が立っていました。

説明書きがあるので、楫取素彦さんがどんな人か参考にするにはちょうど良いです。

楫取素彦自体は山口県内のあちこちの碑で見かける名前なので、頭に留めておくと探索が捗るかも知れません。

おまけの写真

駐車場に向かって付近を歩いていたら、不機嫌そうな猫が座っていました。

 

以上です。

山口県柳井市の柳井の地名発祥の柳と井戸

実は山口県の柳井市の柳井という地名には、由来となった柳の木があります。

この記事ではその柳の木を紹介します。

柳の木の場所

場所は柳井市内の「湘江庵」というお寺の中にあります。

駅からだと徒歩で10分程度で到着します。

ただひっそりとした目立たないところにあるので、地図を頼りに行かれたほうがよいかもしれないです。

お寺の外観はこのような感じで、「柳井山 湘江庵」と書かれているので、前を通り過ぎたらすぐに分かるかなと思います。

お寺自体はとても小さなお寺です。

柳の撮影

柳の正面

お寺の中に入ると、お寺の中心に柳がありました。

これが山口県柳井市の市名の発祥となった柳です。

現在の柳は2005年に植えられた5代目のようです。

下松市の松の木のように代々植えられているようですね。

 

また柳の裏は裏は井戸になっていました。

横にベンチがあるので、休憩しても良いのでしょうかね。

柳の上部

上部も撮影してみました。

中々高さがあり立派な柳でした。

柳の裏側

裏からも撮影してみましたが、どの角度から見てもきれいな柳です。

少し上に切った後が見つけられました。

どうやら伸び切ったところを調整したみたいですね。

柳と井戸の関係

柳のそばには手水舎なのかなと思われる場所があったのですが、なんと青い看板で「どうぞ手ですくって飲んでみてください。」との記載がありました。

この水は美人の水とも呼ばれているようです。

飲んでみるとおいしい水であることが分かったのですが、男性に生まれた私は美人になってもさほど嬉しくありません。

 

そしてこの水と柳は切っても切れない関係にあります。

なぜここの柳が柳井市の発祥なのか?

今から1400年前、豊後の国の娘である般若姫が橘豊日皇子に召されて海上を上京の途中、この柳井の地に上陸して水を求められたとのことです。

その時の水が大変おいしかったので、大事に持っていた不老長寿の楊枝を井戸のそばにさされると、一夜にして大きな柳の木になったと伝えられています。

そんな伝説から柳井の地名がこの地に名付けられたとのことが、近くの看板で確認できました。

井戸

ちなみに般若姫が飲んだと思われる水が出る井戸は、柳のすぐ後ろにあります。

楊枝を井戸のそばに刺したら柳になったということから、伝説の内容と一致していますね。

大きな井戸なのですが、上に蓋がしてあり、中を覗くことはできませんでした。

人が落ちたら危ないので仕方がないのでしょうね。

関連記事

こちらにその他の名水スポットを紹介しています。

良かったらご参照ください。

www.dojo.love

 

以上です。

 

山口県下関市の李鴻章道から更に「紅葉館 藤原義江記念館」への道を紹介

この記事では以前の李鴻章道を歩いた記事で未開拓だった、「紅葉館 藤原義江記念館」への道を紹介します。

李鴻章

以前、李鴻章道の道のりを紹介しました。

その様子は下記の記事で紹介していますので、もし興味があればお立ち寄りください。

www.dojo.love

この記事は、その時未開拓だった李鴻章道の終点から先の藤原義江記念館を目指します。

「紅葉館 藤原義江記念館」への道

スタート地点

ここは以前歩いた李鴻章道の端っこです。

コーンが置かれていたり薄暗く観光地らしくない道のりに見えるのですが、奥のほうで何やら小さい看板を見つけました。

「紅葉館 藤原義江記念館」の看板

看板を確認してみると、「紅葉館 藤原義江記念館」という建物がこの先にあるという内容でした。

階段

この先何があるのか分かりませんが、調査のため歩いてみました。

しばらく怪しい道が続き、その先に階段がありました。。

道の途中の階段

なにやら扉が見つかりました。

扉の上には謎の音符があり、入っていいところなのか少し悩みました。

ただ特に交通制限の看板もなく、道も間違ってなさそうなので入ってみることにしてみました。

扉の先

左からは椿の花が咲いて道に落ちており、右には洋風な壁がありました。

とても整えられた、美しい道です。

「紅葉館 藤原義江記念館」

道を登りきると、藤原義江記念館に到着しました。

コンクリート造りの意外に現代的な造りのため、多くの人が考えるイメージとは違うかもしれません。

建物の上部も撮影しましたが、学校や公民館みたいな外観です。

一見すると新しい建物に見えました。(間違えてどこかのマンションに来てしまったかと思ってしまいました。)

玄関には登録有形文化財との看板が立てられており、ここが「藤原義江記念館」で間違いなさそうです。

扉の下には、なにやら「ナポリの海でうたっています」と書かれた看板が置かれています。

何か意味があるのでしょうが、私は分かりませんでした。

「紅葉館 藤原義江記念館」とは

藤原義江記念館とはもともと、下関で最初の外国系勝者「ホーム・リンガー商会」の代理店である「瓜生商会」が支配人の子息のために建てた私邸です。

現在はの瓜生商会の支配人であった藤原義江の資料館なので、「藤原義江記念館」という名前になっています。

建物は「紅葉館」とも呼ばれ、一時期は英国領事の住居とも使用されていたとのことです。

藤原義江記念館のアクセス

アクセスは他の史跡と近いので、ついでに立ち寄る感じがおすすめです。

 

以上です。

山口県下松市の市名由来となった松、3代目鼎の松(かなえのまつ)を紹介

こちらの記事では、以前紹介した山口県下松市の金輪公園にある5代目鼎の松より、さらに前の3代目の鼎の松を紹介します。

3代目鼎の松とは

鼎の松というのは、下松の地名の由来となる三株の大きな松が、かつて鼎の足の形であったことから名付けられています。

鼎とは3本足の昔の中国の器です。

3代目鼎の松は枯れてしまった松ですが、大切に保存されており、下松スポーツセンターに展示されいます。

その鼎の松は代々続いており、現在5代目まで続いています。

 

鼎の松の場所

鼎の松は下松スポーツ公園内の温水プールの前に保存されています。

駐車場から歩いて、階段を登ったすぐのところにあります。

元々鼎の松が生えていた場所は下松駅北口近くの公園だったため、それなりに移動は大変だったと思われます。

3代目鼎の松の様子

全体像

まずは全体の様子を撮影してみました。

全体として当然枯れているので、葉はなく、枝もなく、根も朽ちています。

そして幹だけが残っています。

ただ、元気だったころは立派な木だったことが想像できます。

生ものなので、雨の日大丈夫なのか、カビが生えたりしないか、心配になるかもしれませんが、建物の屋根の下にあるので大丈夫そうです。

柵も備えられており、うっかり子供や犬がぶつかったり、乗ったりとかの心配も余計なお世話のようです。

幹部分

上半分は恐らくですが、途中で切られてしまったようです。

枯れて支えきれなくなった部分は残しても見た目にもよくないため、展示用に真横にすっぱりとカットしたのだと思われます。

ちぎれたようには見えませんでした。

根の部分

根の部分は石に支えられているものの、しっかり残っていました。

さすがに水は吸っていないようですので、ここから新しい木が生えるとかはなさそうです。

根元に銀板で鼎の松について由来が書いてありました。

この辺りは以前の記事と、内容が重複するので今回は省略します。

5代目鼎の松

鼎の松は地域の人が支え続けて、現在も継承されています。

現在、鼎の松は5代目まで続いています。

実は4代目は害虫被害でやられたとのことですが、5代目は元気な様子でした。

現在の5代目鼎の松は、現地を訪ねて上記の記事で紹介しています。もし時間があれば、こちらもご覧いただければと存じます。

www.dojo.love

 

3代目も4代目も下松市の歴史を示す大切な資産であるため、これからも代々続いていくといいですね。

 

以上です。

山口県にもある大公園!山口県周南市の「代々木公園」を紹介

この記事では山口県周南市にある「代々木公園」を紹介します。

代々木公園とは

代々木公園とは日本国内にある都市公園の1つです。

東京の代々木にも代々木公園があるそうです。

 

ただ、今回紹介する代々木公園は山口県周南市の代々木公園です。

詳しい公園の様子は記事内で詳しく紹介していきます。

代々木公園の場所

徳山駅から歩いて10分程度、代々木通りの近くにあります。

代々木公園の風景

入り口

ここが間違いなく「代々木公園」であることを知らせる看板です。

「佐々木公園」ではありません。

全体像

美しい(?)緑で覆われた公園であることが分かります。

この日は土日だったのですが、普段から人は少ないみたいです。

入り口付近の地面

この公園は、やや草が生い茂っています。

こうしてみると、ベンチがやたら多くて暇をつぶすにはちょうど良いスポットです。

道路を挟んで反対側にコンビニもあるので、弁当と飲み物を買ってベンチで食事をとることができます。(ごみは持ち帰りましょう)

ベンチ

ベンチがやたら多いので、そのうちの1つのベンチに近づいてみました。

鳥の糞、誰かの捨てた空き缶などでベンチはやや汚れていますが、何とか座れないこともないです。

謎のステージ

この公園で一番目を引くのは、この謎のステージです。

活用方法は分かりませんが、時々このステージを利用したイベントがあるのでしょうか。

ステージの真ん中あたりに通風孔?らしきものがあるのですが用途がさっぱりです。

なんと!このステージは横の階段から自由に登れるようになっており・・・

登るとなぜかベンチが置かれています。

このベンチに座った時、位置が高いおかげか、見晴らしはよかったです。

ただ、公園の下の人や周辺ビルから自分がどのように見えているのかを想像してみました。

やはり長時間いるのは恥ずかしかったです。

運動器具

そして公園内は筋トレ器具が設置されているので、近所で運動不足の方はいいかもしれないです。

代々木公園

ここまではふざけていましたが、この公園の奥にはとても大切なモニュメントがあります。

そちらがこちらの写真のモニュメントになります。

 

徳山の街の90%を焼け野原にした、大空襲の記憶を忘れてはなりません。

また先人たちの力で復興し、今ある繁栄がなされたことを忘れてはなりません。

どうでもいいのですが、このあたりに人がいたような気がしてなんとなく来たら、こんなモニュメントがありました。

なのでこの写真を撮った次第です。

後書き

東京の皆さん、申し訳ありませんでした。

悪ふざけが過ぎました。

 

以上です。

山口県下松市の「孝女おまさ頌徳碑」を紹介

山口県下松市の「孝女おまさ頌徳碑」を紹介します。

「孝女おまさ頌徳碑」とは

「おまさ」とは

「おまさ」は漢字だと「阿満佐」と書き、女性の名前です。

こちらの石碑の建てられた位置からは数キロ離れた笠戸島の深浦の出身で、貧しい農家に生まれました。

父や母に孝行したことが時の藩主、毛利斉房、毛利斉煕に伝わり、米1俵、家、屋敷を頂き、99歳まで長生きをしました。

彼女は何かしら直接、藩や里へ貢献したというわけではないです。

しかしながら貧しいながらも親孝行ぶりが、周囲や藩主に伝わって褒美を与えられたというわけです。

 

おまさは現在の山口県の旧国名である防長の「防長三孝女」の一人です。

また、山口県下松市の旧地名都濃の「都濃三孝女」でもあります。

「孝女」とは

孝行な娘との意味です。

男女を理由に役割を区別しない現代日本では、日常的に使用しない単語です。

(時代遅れな言葉ですが、時代背景を知る資料とはなります)

「頌徳碑」とは

「しょうとくひ」と読み、偉人や先覚者などの徳をほめたたえる文章を刻んだ碑のことです。

頌徳碑の撮影

全体像

人の背丈よりも大きい石碑です。

1897年(明治30年)のものらしいですが、石製のためか綺麗に現存しております。

石碑の表面は読みづらいですが、横の簡単な説明板によりおまささんの生き様がなんとなくわかる気がします。

石碑のズーム画像

表面の文字を読めないかズームしてみました。

欠けている部分はなく、深く文字が刻まれているため文字自体は認識できるのですが、達筆で表面の文字はよく読めません。

ただ、途中「孝女阿満佐碑・・・ 正三位勲三等男爵楫取素彦撰文・・」と読み取れます。

そのことから楫取素彦(かとりもとひこ)さんが撰文されたようです。

楫取素彦はあちこちで撰文している長州藩出身の群馬県令(昔の知事)です。

台座

台座と石碑ががっちり接着されています。

「孝女おまさ頌徳碑」へのアクセス

JR下松駅からは歩いて25分のところにあります。

山口県下松市内の平田川の横に頌徳碑があります。

また工業高校と小学校の間でもあります。

周囲は車や歩行者の交通量が多いので、移動する際は注意が必要です。

その他のおまさのスポット

お将の出身地、笠戸島の深浦の周慶寺におまさの墓があります。

そちらについては別記事で、いつか上げようかと考えております。

 

どこかにおまさの肖像画もあるようですが、確認できませんでした。

 

以上です。

 

山口県防府市の宮市本陣兄部家(みやいちほんじんこうべけ)を紹介

山口県防府市に存在する国指定の史跡「宮市本陣兄部家」を紹介します。

宮市本陣兄部家とは

宮市本陣兄部家とは鎌倉時代から続く旧家で、合物(塩漬けや干物類など鮮魚でない海戦物)を扱う防府宮市の豪商です。

 

1642年(寛永19年)には藩公認で宮市本陣に定められ、西国の大名や幕府の上級役人が宿泊するようになりました。

1789年(寛政元年)に宮市一帯の大火で一部焼失するものの、再建されました。

 

しかし、2011年(平成23年)に火事で再び焼失しました。

残念ながら、今回は焼失した状態のものを紹介することになります。

宮市本陣兄部家の場所

場所は防府天満宮前の前の通りになります。

防府駅からは、歩いて20分程度の距離です。

宮市本陣兄部家の様子

前述の通り、大半が2011年(平成23年)の火災で焼失しております。

今後の再建を願って、現時点の記録として写真を残しておこうと思います。

木戸

まずは木戸ですが、こちらは火災後も無事残っていたようです。

木戸の上の部分は黒いビニールで保護されていました。

案内板

木戸の横にどのような家なのか、詳しい案内板がありました。

元々は木戸の真横に大きな建物があったようです。

敷地内にはソテツもあったようですが、現在はそれもなくなっており更地です。

跡地の左側

案内板の後ろ側を撮影してみました。

木戸の後ろ側になりますが、何もなくなっています。

本来なら木戸の後ろなので、当然こちらが入り口となっており屋敷に入れるはずなのですが・・・。

なお、隣は「山頭火ふるさと館」の建物です。

跡地の真ん中

跡地の中央部分を撮影してみました。

眺めてみると奥に古い建物?らしきものがあることに、ふと気が付きました。

こちらの建物は火災から残った貴重な史跡かもしれません。

もしそうであれば、後世のために保存されるとよいのですが・・・。

跡地の右側

跡地の右側を全体的に撮影してみました。

やはりどちらを見渡しても、完全に空き地となっています。

地面に基礎らしきものが見えますが、草だけが生えて寂しい景色になっています。

まとめ

鎌倉時代から続く、合物を扱う豪商のお屋敷が2011年(平成23年)までありました。

しかし、人材、家、文化財は不運にも火災で焼失してしまい、木戸だけが辛うじて残っている状態です。

 

正直、撮影をためらうほどの焼失ぶりなのですが、この写真は何の写真だろう?と分からなくなるぐらいの復活を遂げてほしいと願っています。

 

以上です。