防長民のぶらぶら放浪記

山口県内のスポットをふらっと訪れて紹介する地域ブログです。

山口県下松市の桂木山(宮ノ洲山)・洲鼻ハイキングコースを紹介

山口県下松市の桂木山(宮ノ洲山)・洲鼻ハイキングコースを紹介します。

桂木山(宮ノ洲山)・洲鼻ハイキングコースとは

読み:かつらぎやま(みやのすやま)・すばなハイキングコース

桂木山は下松市の笠戸島手前の山です。

そして白玉稲荷神社、桂木山頂上、展望地、空襲爆弾跡を通るハイキングコースです。

 

駐車場は笠戸大橋の下のスペースを利用すると良いです。

健康な男性なら正味30分ぐらいのハイキングコースで、手軽なコースです。

 

また、近くに分かりやすい看板があるので、事前に見ておくとよいでしょう。

ハイキングコースは山の中を大きく湾曲します。

桂木山(宮ノ洲山)・洲鼻ハイキングコースの風景

ハイキングコースを紹介していきます。

県道笠戸島公園線

こちらが案内にあった「県道笠戸島公園線」です。

スタート地点の白玉稲荷神社はここから鳥居を探します。

白玉稲荷神社

白玉稲荷神社は稲荷なので、鳥居がいくつも続いています。

「白玉稲荷大明神」と読めそうです。

「天保三年壬辰九月」?壬の字が右よりに見えるので自信がない。

奥に見えるのが、白玉稲荷大明神です。

香作大明神

すぐ横に香作大明神もあります。

2つの大明神の関係性はよくわかりません。

遊歩道入口

遊歩道は香作大明神の横から始まります。

何故か似たようなことが書いてある看板が大量です。

そしてこれを登るのです。

登り始めは穏やかな畑の横の道という感じです。

遊歩道:港の景色

最初に港が少し見えます。

まだ登り始めですが、見晴らしの良い景色です。

途中に「津波一次避難場所」の看板(※剥がれていました)がありました。

この地域で唯一の高所なので、ここが避難場所になるのですね。

遊歩道の風景

遊歩道の中は案内板があるので、変な獣道を通ることはないかと思います。

(仮に変なところに行っても小さな山ですが・・・)

それから経路には両端にロープが張られており、範囲外に出ないようになっています。

これでロープを伝っていけば、迷走することがありません。

桂木山三角点

こちらが桂木山の三角点です。(このあたりがだいたい頂上付近です)

標高53.9mです。

この位置から笠戸大橋が見えます。

さらに、下松市の市街地が見えます。

展望地

少し歩くと、展望地があり、日立製作所笠戸事業所の敷地が見えます。

展望地は少し盛り上がった丘になっています。

このように先ほどの三角点と異なり、山側の風景になります。

もしかしたら最新の車両が見えるかも!?

空襲爆弾跡

このハイキングコースの最終地点が、空襲爆弾跡になります。

案内板に従っていきます。

実は空襲爆弾跡までの道のりは、なぜかロープが張られておらず迷走しました。

道なき道を行くと小さな看板が地面にあり、そこに爆弾跡があります。

「終戦の1か月前、昭和20年7月15日の深夜に日本石油を空襲したB29が投下した爆弾のクレーター」と説明がありました。

このように地面が大きくえぐれています。

そしてここだけ木が生えておらず保管されています。

爆弾跡の側面も撮影してみました。

ただ、ここも数十年したら風化してしまうのでしょうね。

この空からB29が爆弾を落としたんだと思うと、何とも言い難い気持ちになります。

看板はありませんが、実はそれらしき跡が他にも多数あります。

他にも宮の洲古墳跡地がありますが、企業敷地内の為立ち入りができません。

古墳は開発によって消滅、「出土品については、国の重要文化財として東京国立博物館に保管されている」との説明が、県道沿いにあります。

アクセス

JR下松駅から徒歩30分程度になります。

以上です。

 

山口県周南市の太華山の麓にある厳島神社を紹介

山口県周南市の太華山の麓にある厳島神社を紹介します。

厳島神社とは

ここで説明する厳島神社は周南市の太華山の麓の厳島神社です。

広島ではありません。

  • 別名:明神様
  • 祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
  • 祭礼:旧6月17日

 

創建の時期は不明で、藩政中期(1750年ごろ)には明神と呼ばれていたことからそれ以前のものと思われる。

明治28年(1895年)の太華村役場の寺社台帳によれば、神殿、拝殿を備え、境内120坪と記載されている。

大正7年、大阪鉄板製造(株)徳山工場が建設されるに当たり、海辺より遷座され、以来会社の守護神として奉祀されてきている。

の旨の説明が、付近の看板でなされています。

 

ちなみに「大阪鉄板製造(株)」は、現在の「日本製鉄株式会社」です。

いうまでもなく、日本国内最大、世界4位の製鉄会社です。

厳島神社の風景

厳島神社の風景を撮影しました。

厳島神社の前の全体像

厳島神社の前から全体像を撮影しました。

全体的にこじんまりとした印象です。

厳島神社の鳥居

鳥居は安永3年(1774年)に建立されました。

そして、後ろに見える2基の灯篭は、寛政8年(1796年)、文政13年(1830年)奉献です。

時系列的には鳥居(安永3年(1774年))→灯篭1(寛政8年(1796年))→灯篭2(文政13年(1830年))と、20~30年ごとに増えたのですね。

上部に特に中心に何か書いてあるわけではないですが、立派な鳥居です。

そしてなかなか古そうな鳥居です。

鳥居の右側を、じっくりと読むと確かに、「安永三年奉」と読めそうです。

左は解読不能。「X月吉日」?

厳島神社の本殿

こちらが厳島神社の本殿です。

特に賽銭箱も鈴もないですが、しっかりお参りをします。

厳島神社の横の4つの祠(ほこら)

厳島神社の横には祠があります。

付近の看板によれば、祇園牛頭天王・竈神(かまど神)などが祀ってあるとのことです。

(あとの2つは何だろうとは思ったけど、触れてはいけないのだろうか)

  • 祇園牛頭天王:疫病を防ぐ神
  • 竈神(かまど神):かまどを守護する神、火の神

神社の周囲の風景

神社の周囲の風景は林、林、林・・・です。

まあ太華山の端なので当然です。

海側から木漏れ日が少しだけ入ります。

どちらを見ても林です。

少し山を削って建立したのかなと思われます。

アクセス

JR櫛ヶ浜駅から徒歩50分ぐらいの場所にあります。

周囲に駐車できる場所はありません。

道路沿いの神社です。

 

以上です。

 

山口県下松市笠戸島の深浦海中鳥居を紹介:宮島になりかけた地

山口県下松市笠戸島の深浦海中鳥居を紹介します。

深浦海中鳥居とは

ご祭神:伊都岐島姫命(いちきしまひめ)

下松市の観光協会のビュースポットの説明が大変分かりやすかったため、一部を引用しました。

大昔、伊都岐島姫命ご自身の安住の地を探して、筑紫から東に向かい航行される途中に笠戸島にたどり着かれ、その美しい景色にひかれて「ここを永住の地に」と思われたが、島内に七浦七恵比寿をお祭りしなくてはならないところ、一浦たりないために諦められ、さらに東、安芸の国「宮島」に移せられたといわれる。

深浦の地名は、明神様が「ここは深い浦ぢゃ」と仰せられてついたといわれ、別名「明神」とも呼ばれる。

 

ここは伊都岐島姫命にとって安住の地の候補となったのですが、惜しくも広島の「宮島」に譲ったということのようです。

もしここが宮島のようになったならば、風景はだいぶ変わったでしょうね。

深浦海中鳥居のある風景

深浦海中鳥居のある風景を撮影しました。

サイコロトイレのある駐車場

車で来られた方は、例のサイコロトイレがある駐車場に車を止めます。

必要ならば、トイレもサイコロで済ませます。

道中

実は目的地まで、この駐車場から少し歩くのです。

以下の写真に示す堤防の端ぐらいまでです。

この写真でも少し鳥居が見えています。

 

潮が引いているときは、堤防の外を歩くのも楽しいかもしれないですね。

堤防の道はきれいです。

いかにも海沿いの道という感じで、砂が散っています。

海中鳥居

そして道の先にあるのが、深浦海中鳥居です。

名前の通り海中にあるのが特徴です。

また、この鳥居は大正14(1925)年に有志の方が建立されたとのことです。

鳥居の足元は貝類がついていて、小石が転がる砂利の底です。

浅いので頑張れば歩いて通れそうですが、ずぶ濡れになります。

鳥居の裏

鳥居があるということは、その先に本体(ご神体)があるはずです。

そこで裏手を見ると山になっています。

この藪の中をかき分けて、森へ入ります。

これは勇気がいる、大変な冒険です。

少し進むとなんとなく道らしき?ものがあります。

これを少しだけ登ります。

ご神体

するとご神体が見えてきます。

雨の日はここまで来るのが厳しいでしょうね。

近づくとこのような素朴なご神体が見えてきました。

ここにお参りします。

アクセス

JR下松駅から徒歩で2時間です。

下松駅から防長バスも出ていて、付近までバスで向かうことも可能です。

 

以上です。

 

山口県下松市の法静寺・花岡福徳稲荷社を紹介:毎年11月3日に奇祭「きつねの嫁入り」

山口県下松市の法静寺(ほうしょうじ)・花岡福徳稲荷社(ふくとくいなりしゃ)を紹介します。

毎年11月3日に奇祭「きつねの嫁入り」が行われます。

法静寺・花岡福徳稲荷社とは

白狐の伝説のある、山口県下松市のお寺です。※湯田温泉の白狐とは違います

伝説を要約してみます。

  1. 昔、村で敬われている和尚さんが法静寺にいた
  2. 和尚さんが徳山の街からの帰りに大切な数珠をなくした
  3. 疲れて寝てしまったら夢に白狐の夫婦が出てきた
  4. 白狐は「山に亡骸があるので、人間と同じようにこの寺に葬ってほしい」と言っている
  5. 起きると、数珠が枕元に置いてあった。
  6. すぐに山に行くと2対の亡骸があったので、寺に運んでお経を唱え墓をたてた
  7. 不思議なことに村から火事・盗みが消えた

今、法静寺の境内の「福徳稲荷」は狐の夫婦のお墓を社として祭ったものです。

※「出世福徳正一位稲荷大明神」といいます。

 

毎年11月3日に山口県の奇祭の1つ、「きつねの嫁入り」が行われます。

法静寺・花岡福徳稲荷社の風景

では、法静寺・花岡福徳稲荷社の風景を紹介してみます。

「きつねの嫁入り」の日(11月3日)は大変な賑わいなので避けました。

法静寺・花岡福徳稲荷社の鳥居

法静寺は花岡福徳稲荷社が境内にあります。

そのためお寺でありながら立派な鳥居があります。

鳥居をよく見ると「出世福徳 稲荷大明神」と書かれています。

この鳥居はどちらかというと、「法静寺」よりは「福徳稲荷社」のためにあるようです。

五穀豊穣 商工発展とも書かれています。

典型的な稲荷です。

法静寺の正面

法静寺の正面まで来ました。

花岡福徳稲荷社も、法静寺の山門から入ります。

法静寺の山門

達筆で難しいのですが、山号は右から「盛涼山」と読みます。

「稲穂祭り 11月3日 下松市」と書かれています。

もともと稲穂祭りだったのが、戦後に「きつねの嫁入り」行列として行われるようになったのですね。

総勢600人の行列、新郎新婦は狐の仮面をかぶり、中の人は極秘だそうです。

法静寺の境内

そして 法静寺です。

左側にチラ見しているのが、花岡福徳稲荷社です。

神仏分離せず、同じ境内にあります。

お寺の鐘

お寺なので鐘があります。

花岡福徳稲荷社へのわき道

花岡福徳稲荷社へのわき道があるので、そちらへ移動してみます。

花岡福徳稲荷社の正面

花岡福徳稲荷社の正面に立ってみました。

※正面は失礼なので、やや斜めです

こちらに白狐が2匹祀られていると思うと感慨深いです。

「きつねの嫁入り」の日はここで油揚げをお供えします。

「きつねの嫁入り」の行列のイメージが飾られていましたので、参考にどうぞ。

こんな風に新郎新婦が人力車で引っ張られ、後ろに鯛や嫁入り道具の行列が続きます。

※昔見たことがありますが、実際はもっとごった返しています。

線香の奉納

最後に線香を奉納しました。

線香とロウソクは別売りの所が多いですが、ここはなんと1組で100円。

(お買い得?お寺でこんなこと考えていいのかな・・)

近くにマッチがあるので、火をつけてロウソクを立てます。

そのロウソクで線香を立てます。

法静寺の宗派に従い、線香は真ん中に1本立てました。

出来ました!

なぜか今日は全く人を見かけなかったので、私の分1本です。

駐車場

ちなみに駐車場はお寺に駐車場があります。

10台は停められるかなと思いますが、「きつねの嫁入り」の日は電車で参るほうが良いかと思います。

アクセス

JR岩徳線 周防花岡駅から徒歩で10分程度です。

 

以上です。

 

山口県周南市の万役山(まんにゃく山)、「史跡 万役山尾崎」の記念碑を紹介:領地争いの歴史

山口県周南市の万役山(まんにゃく山)、「史跡 万役山尾崎」の記念碑を紹介します。

ここは松の木1本を巡って、徳山藩取り潰し改易(つまり消失)にまで発展した領地争いの場所なのです。

万役山(まんにゃく山)事件

万役山(まんにゃく山)事件とは、正徳5年(1715年)、万役山と呼ばれる長州藩内の萩本藩と徳山支藩の境界の山で発生した事件のことです。

 

萩本藩の農民の兄弟が自分で植えていた1本の小松を、田んぼの整備のために切って持ち帰ろうとしていました。

そこへ徳山藩の山役人(足軽)がやってきて、領地の小松を置いていけと咎めたところ、言い争いとなり農民の首を刎ねてしまいました。

 

それから騒ぎは藩同士の言い争いに発展しました。

双方が自領として譲らず、萩本藩は役人側が先に手を出したと言い、徳山支藩は農民側が手を出したと言います。

農民も長年自分たちの土地と思っていたので、徳山支藩の主張に不満が出ます。

 

長州藩内で収まらない騒ぎとなり、判断は幕府にゆだねられ、結論として「徳山藩取り潰し改易」となりました。

その後やりすぎだということで、旧徳山藩の村々から百姓・町人ら約4700人が集まり、萩藩へ直訴へ向かう、幾度の一揆の計画などあり、享保4年(1719年)に徳山藩へ旧領返還、関係者処罰となりました。

 

・・・という、1本の小松から始まるとんでもない大騒動があった場所です。

実は両藩とも穏便に済ませたいという意向はあったのですが、話し合いは何度も失敗しています。

いつの時代もこのようなことはあるのですね・・・。

万役山の風景

万役山の風景を撮影しました。

万役山の全体

万役山は高さ18メートル程度の小さな山です。

萩本藩では「墓の尾崎」と呼び、徳山藩側では「尾崎山」とも呼びます。

付近はなんの変哲もない閑静な町並みです。

この左側にある万役山だけがぽっこり隆起しています。

万役山山登り

万役山の横に石段があるので登ってみます。

小さいけどこれも山登りなのでしょうか、一応・・。

史跡万役山尾崎の石碑:表

山を登ると、万役山尾崎の石碑が途中にあります。

達筆で読みづらいですが、「史跡 史跡万役山尾崎」と読みます。

念のため言っておくと、墓石ではありません。

史跡万役山尾崎の石碑:右側

石碑の右側を撮影してみました。

何やら文章が書いてあります。

「この地は正徳五年(一七一五)六月徳山藩と萩藩との境界紛争発端の地也」

史跡万役山尾崎の石碑:裏

裏にも文字が刻まれていました。

「創立十五周年記念徳山地方郷土研究会平成五年九月一日建之」

石碑自体は、どうやら比較的新しいことが分かりました。


階段の先

石碑の階段の先は万役山の頂上へと続き、頂上は墓地となっているようです。

このような石碑が残されているのは、後世にこのような教訓を伝えようという何かを感じますね。

アクセス

JR山陽本線「櫛ヶ浜駅」から徒歩で20分程度です。

現在、付近は墓地なので周囲の迷惑のかからないように。

以上です。

 

山口県周南市の本城三儒(ほんじょうさんじゅ)屋敷跡を紹介:儒学者が三代続いた本城家

山口県周南市の本城三儒(ほんじょうさんじゅ)屋敷跡を紹介します。

本城三儒(ほんじょうさんじゅ)屋敷跡とは

徳山藩の本城家の屋敷跡のことです。

また、こちらが「本城三儒」と呼ばれたのは、本城家に「紫巌」、「太華」、「素堂」と3代に続いて儒学者が続いたためです。

近くに周南市教育委員会の看板があったのですが、前提知識がないとなかなか難しい内容でした。

多少内容を少し継ぎ足して、以下にまとめました。

本城紫巌(ほんじょうしがん)

1737~1803年。

長州藩の儒学者である山根華陽や滝鶴台に学びました。

天明5年(1785年)に徳山藩の藩校、鳴鳳館(めいほうかん)が創立されると、初代学頭として発展に尽力しました。

本城太華(ほんじょうたいか)

1775~1844年。

紫巌の子で、九州の高木紫溟や亀井南冥に学びました。

その後鳴鳳館の助教となり、世子広篤(後の9代藩主:毛利元蕃)の字読となりました。

本城素堂(ほんじょうしどう、通称:清(きよし))

1825~1865年。

同じく徳山藩士の江村氏の出で、太華に子がなかったため養子として本城家を嗣ぎました。

その後、藩主:毛利元蕃の近侍となり、徳山藩の藩校、興譲館(こうじょうかん)の教授となり、世子元功(毛利元功)の近侍となりました。

※興譲館は鳴鳳館が移転してできた後継の藩校。

本城三儒屋敷跡の風景

城三儒屋敷跡の風景を撮影してみました。

が、実は被写体がそれほどないです。

本城三儒屋敷跡の全体像

こちらが本城三儒屋敷跡の全体像になります。

大きな道路の真ん中に木が1本あり、この位置に屋敷がありました。

徳山市街は徳山空襲で全域が消失しました。

そのため、戦後まっさらになった後に、こちらには道路ができたようです。

横断歩道の真ん中の大木

横断歩道を真ん中まで渡ると、大きな木があります。

ここが「本城三儒屋敷跡」のあった位置のようです。

見上げると葉が生い茂っており、夏場は涼しげな木です。

石碑と立て看板

木の根元には、本城三儒に関する石碑と立て看板があります。

この2つが実質現在一般に見られる、本城三儒の最後の痕跡ではないでしょうか。

「本城三儒屋敷跡」石碑の文字

石碑には「本城三儒屋敷跡」と書かれています。

木の影が道路を覆っています。

少し見づらかったので、「屋敷跡」をドアップしました。

こうしてみると、周りの草は小さく、小まめに整備されているようですね。

ちなみにここは車どおりが多く、撮影は何度かやり直しました。

おそらくJR徳山駅と2号線を結ぶ1本道だから、車が多いのですね。

アクセス

JR徳山駅から徒歩20分程度の場所にあります。

 

以上です。

 

山口県周南市の太華山(たいかざん)の頂上の風景を紹介

山口県周南市の太華山(たいかざん)の頂上の風景を紹介します。

太華山(たいかざん)頂上

太華山の頂上は絶景が見渡せるロケーションです。

そのほかにも以下のようなものがあります。

  • 大島不動尊
  • 絶景を見渡せる展望台
  • 謎の電波塔(?)
  • 周囲を囲むベンチ
  • 佐藤首相顕彰詩碑
  • 久原房之助先生顕彰碑

太華山の頂上の風景

太華山(たいかざん)の頂上の風景を撮影してみました。

大島不動尊

太華山の頂上に来ると、まず目に入るのが大島不動尊です。

長州藩徳山支藩の七代目毛利就馴の隠居後に、武運長久を祈願して建立されました。

以下の三方から徳山藩を守護しているといい伝えられているそうです。

  • 西方に四熊ヶ岳
  • 北方の金峰山
  • 海側の太華山(大島不動尊)

太華山からみる周南市の街並み

太華山の頂上にから見る街の景色は絶景です。

ちょうど写真の位置からは徳山の市街地が一望できました。

ここは夜景スポットとしても有名だそうです。

頂上に設置されたベンチ

頂上には多数のベンチが設置されています。

あちこちにあるので、ゆったり過ごしても大丈夫だと思います。

ベンチに座った状態でも、景色が見えます。

いい配置だと思います。

こちらのベンチはほどよく影になります。

よく歩いた人は休憩で、ここでサンドイッチをほおばるのもよさそうですね。

(ごみは持ち帰りましょう)

急に雨が降っても大丈夫なところもあります。

広場の展望台

この広場には展望台があります。

展望台がなくても十分景色が楽しめそうな場所ですが、需要はあるのかもしれません。

しかし、やはりというか展望台があると登ってしまいます。

手すりのあるしっかりした階段がついています。

展望台の上は割と殺風景なのですが、椅子らしきものはありました。

もう一つの広場

太華山は広場から先に細い道があります。

実はこの先にもう1つ広場があります。

この通りには電波塔らしきものがいくつもあります。

この一帯で一番高い山だからでしょうね。

佐藤首相顕彰詩碑

佐藤栄作元首相の顕彰詩碑がありました。

右から「佐藤栄作元首相顕彰詩碑」と読めます。

 

佐藤栄作は山口県田布施町出身、旧制山口中学校・東京帝国大学卒業で、鉄道省勤務後様々な要職を務めた後、総理大臣になりました。

この顕彰詩碑は佐藤栄作の様々な業績を讃えたものだとのこと。

横には「久原房之助先生顕彰碑」もあります。

久原 房之助は山口県萩市生まれ、東京商業学校(現:一橋大学)卒、久原鉱業所(日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業の大元)の創設者です。

なぜ久原房之助の石碑がここにあるかは不明です。

ただ、以下の点から、ここでよいなという感じはします。

  • 日立製作所の工場が山口県の下松市にある
  • 「下松大工業都市計画」を立案していたこと⇒アメリカに止められた
  • 久原房之助の献金により設立された下松工業高校が見える

 

そしてちょうどこちら側の広場は周南市ではなく、下松市が一望できるのです。

(写真は撮り忘れた)

アクセス

最寄り駅はJR櫛ヶ浜駅になります。

 

以上です。

 

車やバイクでも登れる山口県周南市の太華山(たいかざん)のドライブウェイを紹介

山口県周南市の太華山(たいかざん)を紹介します。

この山は自動車でも、ほとんどの区間を登ることができる山です。

この記事ではドライブウェイを中心に紹介し、頂上の風景については別記事で紹介します。

太華山(たいかざん)とは

太華山(たいかざん)は周南市の南の半島にある、標高362mの小さな山です。
ドライブウェイ(自動車道)とハイキングコース(徒歩の登山道)が設定されています。
また、頂上ではコンビナートと市街地が一望でき、瀬戸内海の島々が一望できます。

 

このドライブウェイは以下のような特徴があります。

  • 殆どの区間が行きと帰りが別々の道( 一方通行)。ただし軽車両除く。
  • ガードレールがない箇所あり
  • 落石注意の箇所あり

太華山ドライブウェイの風景

自動車向けの道路ですが、2輪のバイクや原付でも登れると思います。

(自転車は体力ある人向けかも)

ドライブウェイ入口

ドライブウェイの入口はこのような風景です。

車からの進入口は基本的にここだけなので、風景をよく覚えておく必要があります。

民家に貼られた「瀬戸内海国立公園 太華山」の看板もあります。

ドライブウェイの始まり

ドライブウェイの始まりは明るい道です。

走っていて気持ちいいですが、ここはまだ対向車が来ることもあるので注意が必要です。

基本的には直進のみの進路です。

迷うようなところは、以下のような案内があります。

一方通行の標識あり

途中から道が狭くなるのですが、頂上までほとんど一方通行になります。

なので車のすれ違いはなくなり、その点は安心です。

ただ、すぐ横はガードレールの無いところばかりなので、スピードは出さないほうが賢明です。

道路の上には葉っぱが落ちているので注意

あと最初から最後まで、道の上は葉っぱが多いですね。

道路の両脇が林なので仕方がないです。

自転車やバイクの人はスリップ注意です。

急カーブが多い

急カーブが連続しますが、ドライブする上では楽しいかもしれないです。

火の用心あり

「山火事防げ!!火の用心  周南市消防本部」の看板がありました。

山口県内では2024年度も山火事があり、決して他人事ではありません。

ドライブウェイ途中の開けた場所

ドライブウェイの途中に、開けた場所があります。

ガードレールより先は、見晴しはとても良い場所です。

ただ、気のせいかガードレールがたわんでいて尚且つ崖です。

あまり近づきすぎないほうが良いかなと思います。

この景色の手前が自動車学校、BOAT RACE 徳山です。

奥に見える特徴的な塔は、下松発電所(火力発電所)です。

こうしてみると、この時点で既に結構登っていることに気が付きます。

太華山第二駐車場

しばらく登ると「太華山第一駐車場」より先に、「太華山第二駐車場」に到着します。
頂上はまだ先なのですが、ここもYamaguchi View Spotが設定されているので、写真を1枚撮影するといいかもしれません。

この位置で撮影すると、このような写真が撮影できます。

腕のいい人なら、もっといい景色が撮影できるかなと思います。

第二駐車場には大きな石があり、句が刻まれています。

「彼のあたり 二十の前の我を知る. 蛇島 仙島 黒髪の島」与謝野 鉄幹

与謝野鉄幹は与謝野晶子の夫であり、徳山女学校の教員でした。

第一駐車場へ向かう道

第一駐車場へはさらに登る必要があります。

この看板が少しわかりづらいのですが、第二駐車場を出て左に進みます。

右は来た道です。

少し進むと下山道と、山頂方面の道があります。

誤って下山道に進むと一方通行なので、最初から登り直しです。

頂上方面は一方通行ではないので、対向車に注意です。

第一駐車場

第一駐車場は車が10台程度は停められそうです。

また、ここにはトイレがあります。

この日、駐車場はガラガラでした。

太華山の頂上への石段

この駐車場に車を止めると、あとは人力で頂上を目指すことになります。

頂上を目指す人は、この石段を登っていきます。

なお、「イノシシ出没注意」の張り紙がありました。

野犬も出るみたいです。

周南市、下松市は全域で野犬が出るので注意が必要です。

ここは周南市の街を挟むとはいえ、森林なのでいてもおかしくはないです。

石段はそこそこ長めな印象です。

運動不足な私だときついです。

太華山の下山道

太華山の下山道は看板をよく見れば、正しい方向に下山できます。(逆走しないです)

下山道も一方通行になります。

登山道と似たような雰囲気なので、撮影は割愛します。

ただ、下山道も落石注意はあるので油断してはなりません。

アクセス

最寄り駅はJR櫛ヶ浜駅になります。

 

以上です。

 

山口県周南市の徳山動物園前にある「機関車広場」を紹介

山口県周南市の徳山動物園前にある「機関車広場」を紹介します。

「機関車広場」とは

徳山動物園前にあるD51形式機関車の展示広場です。

D51の近くにあった、徳山市の看板が分かりやすかったので引用します。

D51形式機関車は、昭和11年から造られた最も代表的な機関車です。1.100トンの貨車を引いて、時速75キロで走る力持ち。昭和20年までに1.115両も造られ「デゴイチ」の愛称で呼ばれています。この機関車は昭和15年1月17日に誕生。仙台、厚狭や広島などの機関区で約118万キロを走り、岩徳線でも活躍しました。徳山市ではこの由緒ある機関車を日本国有鉄道から譲り受け、ここに展示しました。

 

D51形式(デゴイチ)

全長19.730㎜/動輪直径1.400㎜/全重量125.10トン/最大馬力1.575PS/最大速度75km/h

昭和56年10月 徳山市

読み方として「.(ピリオド)」はたぶん「,(カンマ)」に置き換えるのかな・・・。

 

※ところどころ”徳山市”と記述されていますがD51を譲り受けた当時は徳山市だったためです。平成の合併で市の名称が変わり、現在は周南市です。

「機関車広場」のある風景

機関車広場の風景を撮影しました。

機関車広場の看板

D51形式(デゴイチ)のスペックが書いてある、看板がありました。

  • 全長19.730mm
  • 動輪直径1.400mm
  • 全重量125.10トン
  • 最大馬力1.575PS
  • 最大速度75km/h

徳山市の看板と同じことが書いてありますが、他に提供の会社名が記載されています。

機関車広場の入口

広場への入口には機関車広場と書いてあります。

入り口に踏切警報機も配置するという粋な配置です。

これも引退した警報機でしょうか?

正面から見た機関車

せっかくなので正面からもD51を撮影してみました。

ナンバープレートに「D51395」と書いてあります。

395番目に造られたD51ですね。

ちなみにDは型(動軸数=4)、51は(テンダー機関車)ですが、ひとまとめに覚えてよいと思います。

機関車の側面(動物園側)

側面を撮影してみました。

さすがに経年劣化で、少しさび付いています。

現在は立ち入り禁止ですが、昔は柵がなかったようです。

機関車の側面(道路側)

徳山動物園の前を通る、道路側からも撮影してみました。

下から見上げる状態になります。

アクセス

JR徳山駅から徒歩で30分程度です。

バスも出ています。

 

以上です。

 

山口県周南市の晴海親水公園にある「五卿登陸碑」(ごきょうとうりくひ)を紹介

山口県周南市の晴海親水公園にある「五卿登陸碑」(ごきょうとうりくひ)を紹介します。

「五卿登陸碑」(ごきょうとうりくひ)とは

五卿登陸碑とは「八・一八政変」後に、公卿(くぎょう)が京都から三田尻(現在の防府)に行く途中、停泊したことを記念した記念碑です。

1863年(文久3年)に勤王派の公卿(くぎょう)は「八・一八政変」後に京都を追われました。

公卿7人が3隻の船に分乗して、1863年(文久3年)8月22日に兵庫を出発して長州に向かっていましたが、徳山近辺で嵐にあいました。

  • 1番船 ※笠戸へ停泊
    • 三条 実美(さんじょう さねとみ) 
  • 2番船 ※笠戸へ停泊
    • 三条西 季知(さんじょうにしすえとも)
    • 壬生 基修(みぶ もとおさ)
    • 四条 隆謌(しじょう たかうた)
    • 錦小路 頼徳(にしきこうじ よりのり)
  • 3番船 ※辛うじて三田尻へ直行で到着
    • 東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ) 
    • 澤 宣嘉(さわ のぶよし)

全7人の公卿のうち、1番船と2番船に乗船していた5人がこの地に停泊の為、卿登陸碑というわけです。

なお、実際に石碑が建てられたのは1913年(大正2年)とのことです。

「五卿登陸碑」の風景

「五卿登陸碑」のある場所を撮影してみました。

晴海親水公園

まず場所なのですが、晴海親水公園の中にあります。

このようにだだっ広い公園になります。

海に近づくと波は穏やかで、悪天候でも船が停泊ししやすそうな場所です。

ただもともと石碑があったのは、より笠戸島に近い位置(旧:東浜崎地区)だったそうです。

現在はこの公園の端に「五卿登陸碑」があります。

五卿登陸碑の全体

全体を見渡すと、五卿登陸碑の石碑と看板の2つで構成されています。

あとは公園にポツポツ立っているシュロ?ビロウ?の木らしき植物。

少し角度を変えて撮影してみましたが、こちらも何もないです。
公園の周りは工場なので、コンテナのようなものが少し見えます。

近づいて斜めに撮影すると、少しかっこよく撮影できました。

五卿登陸碑の正面

石碑としては結構大きい印象です。

五卿たちの地位とかも関係あるのでしょうか。(5人分?)

近づくと以下のように書いてありました。

「五卿登陸碑」

  • 御二位公爵毛利元昭書

 

毛利元昭の妻は三条実美の三女です。

この場合三条実美が身内だったという理由もあるでしょうが、長州藩毛利元昭の名はそれに限らず石碑で時々見ます。

実は裏側に何か書いてあるかもと思って確認したのですが、真っ白でした。

(写真は撮り忘れました)

アクセス

JR徳山駅から徒歩で15分程度となります。

 

以上です。